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「法隆寺は移築されたー太宰府から斑鳩へ」

米田米三著 新泉社 1998

 

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p61 法隆寺金堂の天井鏡板の蓮の花の文様を描く作業と並行して、天井板に接する部分に多くの落書きが発見された。その中に「六月肺出」と書かれたものがある。
 p64 観世音寺のある太宰府の北300mに位置する新羅でも彗星の記録が残っている。「三国遺事」の真平王の時代である。
 p65 これが617年のハレー彗星を記録しているとの仮説から、観世音寺が翌年の618年に完成したと推定できる。
 p67 釈迦三尊像は尺寸の王身とあるように、上宮法皇をモデルに作られている。観世音寺の完成が618年頃であり、観世音寺の建設は上宮法皇の治世に行われた。
 p71 「日本書紀」が造作された歴史書であることは多くの人によって指摘されてきた。推古天皇聖徳太子が607年に法隆寺と薬師像を作ったという虚偽が金石文である薬師像光背銘と「西院資材帳」に記されたことが明らかになった。
日本書紀」をはじめ大和政権が残した文献の解明は、上宮法皇の業績を(推古天皇)と聖徳太子の業績とする置き換えが行われていることを確認することから、第一歩が始まるであろう。
 p169 1959年慶尚北道漆谷郡の松林寺塔を解体中に発見された舎利容器安置の小厨子を覆う屋蓋の構造が、法隆寺金堂の天蓋と驚くほどの一致を示していることに注目せざるをえなかった。二重の吹き返し板には、蓮弁形の軒飾りが法隆寺金堂の天蓋の場合と全く同じ位置に配されており、框の下縁の垂れ飾りの具合も全く軌を一つにしているのである。高欄の構成は法隆寺五重塔のそれとの一致がみられたのである。
 p185 倭国の延年の舞が大和政権によって厳しく取り締まられたことは「続日本紀」の種々の禁令から類推できるが、毛越寺の延年の舞の催しの残る数々のタブーから、その厳しさが伺える。
 p197 671年に大和勢力によって侵略され(大和朝廷内の権力闘争である壬申の乱と書き換えられている)倭国文化はことごとく大和朝廷のものとなった。
倭国文化はビザンチン文化(東ローマ帝国)に匹敵する。
p198 倭国滅亡後は大和朝廷の弾圧下にあり、民衆はなすすべがなかったが、延年の舞の分析から推測できるように抵抗が続いた。知識人の抵抗の試みは「日本書紀」「万葉集」の中に、一般人は祭りや風習の中にタブーとして記憶を閉じ込めた。
 p199 森鴎外のみは、「歴史その儘と歴史離れ」の中で、民衆の伝える言い伝えや風俗等に歴史の本質が感じられたらしく、作家としてその話の内容を脚色することに否定的な立場を表明している。