法隆寺金堂の仏様の上に下がっている天蓋の飾りが非常に凝っています。透し模様になっている花と天女たちの楕円形の飾りの下に、金色の羽が見えます。これが鳳凰だそうです。聖徳太子は法王大王と呼ばれていたらしいので、語呂合わせで鳳凰なのでしょうか。
2人の方が、法隆寺と敦煌壁画に共通点があると書かれています。
まずホシガラスさんが、金堂天蓋の鱗模様と三角の模様が、中国石窟 敦煌莫高窟の壁画とそっくりであることを写真で比較されています。
修理された鳳凰
飾りの天女
因みに、橘夫人念持仏厨子の屋根も、全く同じ模様になっていますね。
小さな厨子なのに、とことん内部も凝っている様子を細部まで、ほしがらすさんが書かれています。
ほしがらすさんから、法隆寺四天王像の後ろ姿の拡大写真をいただいてきました。
この後ろの中央の鱗のような柄は、天蓋の柄ととっても似ています。
細かく彩色してあったことがわかりました。
新美術情報2017さんが、同じく法隆寺金堂の天蓋と、壁画について書かれています。
http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress016/美術/美術史/日本美術/飛鳥・白鳳文化期/法隆寺金堂火災復興と復元/作品解説/
側面は木板四枚を五枚組接で接合し、外側は上半部に連珠円文と綴状の垂幕を彩給し、下半部は三角形の垂幕と襲を彫刻し彩絵を施している。綴部は朱・緑青・丹・群青で色分けし、中央に菊花文を措いている。三角形の垂幕には赤地連珠円文が措かれているが、これは金堂壁画十号壁の菩薩像の衣や法隆寺に伝わる萄江錦などにも見られる文様である。
また、側面板には十四羽の鳳風像が飾られている(現在は中の問天蓋には八羽、西の間天蓋には十羽が附属)。鳳風は口に小孔が開けられ、胸に銅鍍が打たれている。おそらく、当初は口に理洛あるいは綬帯などをくわえ、胸からも同様の飾りを下げていたものと推測される。また、側面板下端の襲部には銀が打たれ、ここに垂飾が下げられている。垂飾はリボン形、紡錘形、球形の珠をつなげ、下部に一局平な鈴形金具を下げたものであるが、かなり後世の補作が加わっている。
金堂の壁面に、インド系の仏様の絵がぐるりと描かれていたとは知りませんでした。
敦煌莫高窟の初唐期壁画(下の2枚の写真)に同様の図相による阿弥陀浄土図が描かれている。
聖徳太子は娘をサマルカンド王に嫁がせた、と小林惠子さんの本に書かれていたので、敦煌とサマルカンドは影響があってもおかしくないでしょうし、意図的に、法隆寺金堂を創造した人々は、敦煌莫高窟と似た装飾を理由があって施したのでしょう。