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「法隆寺のものさし 隠された王朝交代の謎」

川端俊一郎著 ミネルヴァ書房 2004

 

日本建築学会は川端教授の法隆寺南朝ものさしについての論文を掲載拒否したけれども、平成15年北京清華大学建築学院の学術活動に招かれ、院生達に法隆寺のモノサシについて講演をされたそうです。聖徳太子と言われていた人物が、実は阿毎多利思比孤という上宮王であったということを検証している本。

 

p182 唐軍は白村江の海戦で完勝した。唐軍との戦闘は、筑紫では行われなかった。すでに倭王が捕らえられ降伏し、戦争が終わっていたからである。降伏した倭王が赦され、筑紫都督として戻ったのは敗戦の八年後である。

筑紫野アマキミ薩野馬は赦され、筑紫都督として帰国した。

 

p208 この機会に政権奪取を目論んだ勢力がある。それは乙巳のクーデターで蘇我蝦夷と入鹿一族を滅ぼしてヤマトの実験を手にした中大兄、大海人と藤原鎌足たちである。

 
p209 日本書紀は唐使が何をしたかは一切記さないが、アマキミ(天皇)を捕らえた上で、筑紫政府と戦後処理を進めていたのである。
高宗は洛陽を発ち泰山に向かっており、従駕した諸蕃の中に倭の酋長もいた。(冊府元亀帝王部)。盛儀のあとで、大石たちはアマキミ
薩野馬にも会わされ、唐の戦後処理について協議し、また折衝を重ねたものと思われる。この遣唐使の帰国は二年後のことになる。
 

p210 唐軍の戦後処理はまず都督府の設置である。百済は5つ、高句麗は9つ置かれた。倭国は筑紫都督府に1つ置かれた。

 
百済高句麗の場合も、唐に協力する酋が都督とされている。これは暫定的なもので、やがて捕らえられていた王が臣従を誓って戻される。
これが唐帝国の統治政策であった。
倭国の場合も、同様に戦後処理は進められたであろう。ヤマトは百済戦に加わらなかったし、かねて反筑紫路線であったことは、遣唐使によって唐側にも知れ渡っていた。勢力を温存しているヤマトにとっては、暫定都督に甘んじている場合ではなく、筑紫のアマキミが囚われている今こそが、政権奪取の絶好機であった。
 
p211 唐の敗戦処理の政策は、唐を宗主国とする冊封体制に組み込んで従属国にするものである。敗戦によって主権を奪われるという現実には、
どの勢力も慄然としたに違いない。救国の策は二つ。唐軍に抑えられている首都を遷すこと、捕虜となったアマキミにかえて新たにアマキミを
立てることである。これを断行したのが蘇我氏を倒してヤマトの実権を手にした勢力であった。
 
中大兄が近江への遷都を断行したのは、大石等の遣唐使が出発してから二度目の春3月である。太宰府の首都機能を近江へ遷したのである。
難波宮でなく近江の大津まで引いたのは、主権を失うことに徹底して抵抗する決意を示すものであったろう。
 
p212 遷都の翌年正月、中大兄は自らアマキミ(天皇)の位に即くことを宣言した。国体の維持が名目であっただろう。筑紫の君の一族を立てることはしなかったから、王朝の交代である。こうして日本書紀のいう「天命開別天皇」つまり天智天皇が誕生した。それは母親の斉明天皇
崩御から7年後のことであった。
 
しかし唐帝国が、ヤマトへの政権交代、新しいアマキミの誕生を自然承認するはずはなかった。翌年大唐は郭務宗ら二千余人を送り、三度目の
筑紫進駐をする。
 
p213 天智天皇即位の年7月、筑紫率に栗前王が任命されたが、翌年正月解任されて蘇我赤兄臣に変わる。筑紫率と日本書紀は書くが、
唐軍にとっては筑紫都督に相当するからである。中大兄が都督就任を固辞したので、栗前王が引き受けたのかもしれない。それを赤兄臣に
変えたのは天智天皇であろう。
天智即位の年、10月唐が新羅の協力で高句麗を平定したとの情報が入ってくる。唐にとっての高句麗平定は、新羅にとっては半島統一への
前進でもあった。9月に新羅使が来たとき、天智天皇は文武王と金痩信(まだれなし)に船を贈っているが、11月にもまた文武王に絹や綿
などを贈った。ヤマトと新羅とはしばしば使節を往来させ、情報交換するようになっている。ヤマト勢は百済に渡らなかったから、新羅とは
戦っていなかったのである。あるいはヤマトと新羅との親交は、戦争前からのものであったのかもしれない。
 
p215 進駐軍との武力衝突の危険性は増していた。ところが、12月天智天皇が病死してしまう。翌年正月、近江で天智天皇の葬儀が行われた。
5月末に郭務宗が帰国したのを待っていたかのように、6月、大海人皇子が兵を挙げて政権を握る。この壬申の乱は、筑紫都督府への政権
移転を再び覆すための全国規模の内乱であったと思われる。
「戦国乱世風の大規模な攻伐」とまでは行かなくても、筑紫派とヤマト派の、従属か独立かと言った路線を巡る対立となったことであろう。
筑紫率の栗隅王が大友派の要請を頑として断り、兵を動かさなかったとあるのは、帰還した薩野馬がいたからであろう。しかしその運命に
ついて、日本書紀は何も記していない。
翌年2月(673年)、勝利した大海人皇子が、飛鳥の浄御原の宮でアマキミを継承し、天武天皇が誕生する。
確実なことは、唐の都督府政策を覆して、ヤマトが日本の政権を奪取したということである。
 
p216 結局 筑紫のアマキミを唐帝国の一都督にするという政策は失敗に帰し、日本の主権はヤマト政権によって継承された。
やがて新羅が強勢になると唐は百済を維持できず、倭国への工作基地を失った。唐は平壌安東都護府を新城(現、撫順)に移さざるをえなくなって(677年)、朝鮮半島新羅によって統一されることになる。
こうして熊津都督府の唐軍が執拗に試みた筑紫都督府設置の失敗は、唐書にも記載されることがなかった。