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「メキシコの大地に消えた侍たち」

大泉光一著 2004

 
p23 当時ペルーに居住していた大半の日本人は1610年前後に日本を脱出し、フィリピンのマニラとヌエバエスパニアのアカプルコ港を経由してペルーに辿り着いたのである。彼らは自然移民男子、日本からポルトガルマカオに追放され、ポルトガルじんに奴隷としてペルーに連れて行かれた人々であった。未婚の男女は同地に落ち着くと、結婚するようになった。
 
p25 当時日本人がエスパニア人の使用人及びエスパニア船の下級船員として働いていた例は多かったが、マカオやインドのゴアでは多くの日本人が奴隷にされて売買されていたのである。
実は1571年3月12日付けのポルトガル国王の勅令(APO,5-II,pp.791-793)によって、日本人を奴隷にすることは堅く禁じられていたのである。その勅令は、
「インド地域の日本王国の異教徒たちを捕獲し、大いなる不都合が生じている旨の知らせを受けたので、かかる捕獲を正当化する理由は存在しないし、前述の異教徒の改宗にとってそれが障害になるというのが主たる理由であるが、今後ポルトガル人は何人も、日本人を買ったり捕獲したりしてはならない旨命じる」と厳しく戒めていた。しかし、勅令発布後も日本人奴隷売買が後を絶たなかったので、国王は1670年1月18日付けリスボン発で、インド副王宛てに日本人奴隷を解放するように、書簡を送っている。
イエズス会のパードレ(宣教師)たちは、日本人を奴隷にしないように発せられた勅令を、三十年余年全く履行していない。朕は神学者たちから熟慮の末の見解を得て一つの法律を作り、貴下に送付するように命じたのであるから、それを履行するよう依頼する。」
こうした国王の指示に従い、ポルトガル人商人は、次第に日本人奴隷を解放するようになった。
 
p33 徳川家康は以前からフィリピンとの交易に多大な関心を持ち、メキシコとの直接貿易航路の開設を意図しており、マニラ・ガレオンと競合させるつもりであった。
ドン・ロドリゴ・デ・ビベロが1609年12月20日伏見において将軍との最初の謁見の後、非常に急き立てられる気持ちで譲歩を受け入れ、協定書に署名している。
ロドリゴが家康に提案した主な条項は、
エスパニア人航海士に海岸線の測量を許可し、関東の港に商館建設と、ポルトガルじんが長崎で得ているのと同じ権利を認めること。
他方、銀の生産高を上げるため、家康は50人のエスパニアじん鉱山技術者のコロニーを日本に作る請負契約を認め、エスパニア人は精錬された銀全体の四分の一を獲得する。鉱山技術者の集団は司祭一人が世話することとし、経費には王室が得る利益ーこれも全体の四分の一、をあて、カトリック信仰の宣教にも活用される」というものである。
 
p36 徳川家康は天下を掌握する前からフィリピンやヌエバエスパニアとの通商交易に大きな関心を抱いていた。家康はヌエバエスパニアが1557年に銀鉱石の水銀アマルガム精錬法を発明した情報を入手して伊織、その技術の導入を考えていた。
家康はヌエバエスパニアとの直接通商交易の協定をエスパニア国王に受諾させるためにフランシスコ会のフライ・アロンソ・ムニョスとペドロ・バウティスタの二人を幕府の使節としてエスパニアに派遣するため、ロドリゴと一緒にサン・ブエナ・ベントゥーラ号に乗船させたのである。それに便乗する形で、京都や大阪の商人や町人総勢二十数名で編成されたのが田中勝介使節団である。彼らの渡航目的は、ヌエバエスパニア国内の市場調査である。
田中勝介以外の随行員について史料は何も残されていないが、アステカ王国の元首長の息子でフランシスコ会の修道士だったドミンゴ・フランシスコ・デ・アントン・ムニョン・チマルパインがナウァトル(アステカ語)で書いた「チマルパインの日記」に、同使節のメキシコ滞在の様子について詳しく書き残されている。