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天正遺欧少年使節

天正遺欧少年使節について、あまり知らなかったので、wikiをチェック。なかなかすごい運命の人生だったのですね。とても似ているのが、伊達政宗が企画して支倉常長が正使の慶長遺欧使節

f:id:MeinFavorit:20210906113111p:plain1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節肖像画。タイトルには「日本島からのニュース」と書かれている。京都大学図書館蔵。
右上・伊東、右下・千々石、左上・中浦、左下・原。中央・メスキータ神父

 

伊東マンショ

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千々石ミゲル

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中浦ジュリアン

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原マルチノ

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1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名大友義鎮(宗麟)・大村純忠有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。

 

ヴァリニャーノは自身の手紙の中で、使節の目的をこう説明している。

研究者の伊川健二は、ヴァリニャーノを正使とした使節団がインドゴアを中心に、日本からヨーロッパへの橋渡しをしたことを主張している。また彼らは、ヨーロッパへ渡りはじめて帰国した日本人とされる。渡欧し、現地に残ったものは、1555年のベルナルドなどが確認されている。

使節の少年たちは有馬晴信日野江城下に建てたセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた。使節4名の正確な生年月日は不明だが、派遣当時の年齢は13 - 14歳であった。中浦ジュリアンが最年長、原マルティノが最年少と言われる。

 

写真は中浦ジュリアン

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