天正遺欧少年使節について、あまり知らなかったので、wikiをチェック。なかなかすごい運命の人生だったのですね。とても似ているのが、伊達政宗が企画して支倉常長が正使の慶長遺欧使節。
1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画。タイトルには「日本島からのニュース」と書かれている。京都大学図書館蔵。
右上・伊東、右下・千々石、左上・中浦、左下・原。中央・メスキータ神父
1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。
ヴァリニャーノは自身の手紙の中で、使節の目的をこう説明している。
- 第一はローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。
- 第二は日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てたいということであった。
研究者の伊川健二は、ヴァリニャーノを正使とした使節団がインドのゴアを中心に、日本からヨーロッパへの橋渡しをしたことを主張している。また彼らは、ヨーロッパへ渡りはじめて帰国した日本人とされる。渡欧し、現地に残ったものは、1555年のベルナルドなどが確認されている。
使節の少年たちは有馬晴信が日野江城下に建てたセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた。使節4名の正確な生年月日は不明だが、派遣当時の年齢は13 - 14歳であった。中浦ジュリアンが最年長、原マルティノが最年少と言われる。
写真は中浦ジュリアン
- 使節
- 随員
- ジョルジェ・ロヨラ修道士 - 使節の教育係、日本人
- コンスタンチノ・ドラード - 印刷技術習得要員、日本人少年
- アグスチーノ - 印刷技術習得要員、日本人少年
- アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父 - ローマへ随行するつもりだったが、職務によってゴアにとどまる。
- ヌーノ・ロドリゲス神父 - ヴァリニャーノの後を継いで一行に従う。
- ディオゴ・メスキータ神父 - 通訳、イエズス会員
- ロレンソ・メシア神父
- オリヴィエーロ修道士
1500年頃のリスボンを描いた絵画
- 1582年(天正10年)
- 1583年12月20日(天正11年旧暦11月7日) - マラッカ・コチンをへてゴア着。
- 1584年(天正12年)
- 1585年(天正13年)
- 3月1日(旧暦1月30日) - スペインのマヨルカ島を経由しイタリアのリヴォルノに到着、トスカーナ大公国に入る。イタリアの地を初めて踏む。
- 3月2日(旧暦2月1日) - 午後1時にピサに到着。ピサ宮殿にてトスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチに謁見。その晩、大公妃ビアンカ・カッペッロ主催の舞踏会に参加。ピサ滞在中、斜塔や大聖堂をはじめとするピサのドゥオモ広場を訪れる。
- 3月6日(旧暦2月5日) - カヴァリエーリ広場にあるサント・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教会にて聖ステファノ騎士団を見学する。この日は四旬節の初日である灰の水曜日であったため、トスカーナ大公とともに灰を受ける。
- 3月7日(旧暦2月6日) - フィレンツェに到着。シニョリーア広場にあるヴェッキオ宮殿に宿泊する。
- 3月11日(旧暦2月10日) - フィレンツェ近郊にある別荘ヴィッラ・デミドフ(イタリア語版、英語版)(ヴィッラ・プラトリーノ)で過ごす。
- 3月23日(旧暦2月22日) - ローマでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。ローマ市民権を与えられる。
- 5月1日(旧暦4月2日) - グレゴリウス13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式に出席。
- 6月3日(旧暦5月6日) - ローマを出発。以後ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどの諸都市を訪問。途中、アッシジにも巡礼。
- 1586年4月13日(天正14年旧暦2月25日) - リスボンを出発。帰路につく。
- 1587年(天正15年)
- 1590年7月21日(天正18年旧暦6月20日) - 使節団帰国。長崎に帰港。
- 1591年3月3日(天正19年閏1月8日) - 聚楽第において豊臣秀吉を前に、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏する。