幕末の藩主自らの許可による贋金作り。証拠の日記が今でも残っていることには驚くばかりです。
p13 贋金作りのきっかけは、藩主島津斉彬が集成館事業で膨大な資金を必要とし、経済的補填を考えたため。
p214 両替商人は三井組大阪両替店であった。
p243 通称てんぷら金と言われたのは、正式には銀台二分金という贋金二分金のことである。
p262 沢田章「明治財政の基礎的研究」1966年によれば、贋金鋳造藩として薩摩藩、筑前藩、安芸藩が有名である。贋金密造が多くの府県に及んだ事由は、幕府勢力の衰退によって取り締まり能力がなくなったことを見越したものであり、軍事費の増大に対応する財政不足からなされたと指摘することができる。
p263 若松藩が贋金納高で最多となっているのは、若松藩が贋金を密造したのではなく、同地域において長期間の戦闘が続き、軍事費の増大を招いた結果である。軍備費負担は政府軍、奥羽越列藩同盟の両者ともに大きかったことから、贋金による調達がなされ、戦地となった会津地域に贋金が多く残った。
薩摩藩は慶応元年から贋金の密造を開始したが、支藩佐土原藩などは慶応四年からであり、多くの藩も佐土原藩と同時期に贋金作りに手を染めた。
また薩摩藩の場合は蒸気船や武器の購入にも贋金を充てたようである。そのため開港場での贋金問題は外国との国家間補償問題へと発展する可能性があったために、新政府の真価が問われることになり、厳正に対応せざるを得なくなったといえる。