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「沖縄決戦 高級参謀の日記」

八原博道著 2015.5.23 中公文庫プレミアム


かなり広範囲に、アジア中に兵を送ったのに、なぜ北方四島と沖縄には充分な兵を送り、守備しなかったのでしょうか?戦争末期において、沖縄の守備はむしろ減らされていたなんて。読んでいると、孤独で冷静な八原大佐のルーツは、セファラディだと思います。
戸部良一による解説がとてもよくまとまっています。

 

p501 八原大佐は陸軍士官から陸大卒、恩賜の軍刀を授けられているほど優秀だった。陸軍省を経て2年米国駐在、タイ、マレーで情報収集、タイ大使館付き武官補佐官、第15軍参謀としてビルマ攻略作戦に従事。1944年3月41歳で沖縄を含む南西諸島防衛のため新設された第32軍の高級参謀になった。八原は作戦を構想・立案した当事者だったが、特徴的なのは部隊で指揮官として勤務した経験がなかったこと。軍人の経歴としては異例に属する。

 

p502 彼が高級参謀に発令されたとき、大本営マリアナ諸島で米軍を迎え撃つ腹積もりであった。大本営は沖縄決戦など考えてはいなかった。
本書は沖縄決戦の作戦を担当した八原が、戦中戦後に彼に加えられた批判に反駁することが動機になっている。批判したのは大本営以下の上級司令部と一部の旧同僚であった。八原は大本営をはじめとして上級司令部に定見がなく、固定観念に縛られた発想しかできなかったことを指弾する。
同軍は大本営直轄として設置され、二ヶ月後に本土の西部軍の下に、さらに二ヶ月後に今度は台湾軍の隷下に入れられた。サイパン失陥による。

 

p503 沖縄本島の総兵力から三分の一近くを引き抜かれた第32軍は、攻勢主義をすて、沖縄本島の南部(島尻地区)に築いた堅固な要塞地帯に立てこもって戦う戦略持久戦に転換した。本土決戦に備え、その準備の時間稼ぎをするため、沖縄でアメリカ軍に出血を強要しできるだけ長く戦わせる、これが八原の狙いであった。沖縄をいわば本土決戦のための捨て石にしようとしたのである。

 

p505 際立っているのは、第32軍と大本営との相互不信、意思疎通の欠如である。大本営は、1945年3月まで、米軍の沖縄上陸の一ヶ月前まで、沖縄を含む南西諸島で航空決戦を行うとの方針を伝えてこなかったという。八原は大本営の意図不明のまま、大本営が本土決戦を企図していると忖度し、決戦準備を助けるために沖縄の持久を選択したのであった。

わからないといえば、沖縄への米軍上陸が確実視されるようになった3月に、陸軍人事の定期異動がなされ、沖縄の諸部隊にも及んでいることも理解に苦しむ。米軍との戦いに備え訓練や築城を通じて戦闘組織としての機能と結束を強化してきたのに、その指揮官や参謀を移動させるとは、どんな発想に基付いていたのだろうか。

 

p506 八原は、大本営の戦略を航空優先主義として批判する。

p507 高級参謀八原は、極めて緻密な頭脳の持ち主であった。情勢を冷静かつ客観的に観察し、手持ちの資源に照らし合わせて複数のオプションを案出し、徹底的に比較・分析した上で、最も合理的な対策・方針を導き出す。クールで合理的なリアリストであった。日本軍の参謀について、無謀、横暴、乱暴の三ボウだという揶揄があったそうだが、八原は下克上や幕僚統帥とは無縁であった。
だが、彼の「あまりにも透徹した論理をふりかざす態度が、軍司令部内の空気をギクシャクさせ、自分を孤立に追い込んだ面もあった」とする見方もある。(稲垣武「沖縄 非偶の作戦ー異端の参謀八原博道」)

 

「沖縄決戦」将軍、司令官の自決のあたりは映画の一場面のよう。参謀長と司令官が、責任をとって自決したことはわかるが、首をはねる必要があるのかどうか?男の美学はわからない。そして、殉死?した高級副官たち。目の前で終戦になるのに、なぜ死を選ぶのだろうか?

 

p433 私は参謀長に、山頂の攻略は断念のほかなき旨を報告した。将軍は、すでに酒の酔いが回っているらしく、なかなかの上機嫌だ。「まあ一杯飲め」と酒を勧められる。「お前とは大東亜戦争の起こる直前、サイゴンでよく飲んだね。あのホテル・マゼスティックの横の映画館で見た「ダニューブの漣波」というのは美しい映画だった。俺もお前も苦労を重ねた挙句、今日の運命を甘受するに至った。俺は着任の当初から、決してお前をこの島では殺さぬと言っていたが、今その約束を果たし得て満足だ。お前の敵線突破は必ず成功する。」と言って六神丸のような薬と、百円札5枚を渡された。

 

p435 私を前にして、両将軍の間には、次のような会話が続けられた。
参謀長「閣下はよく休まれましたね。時間が切迫するのに、一向起きられる様子がないので、実は私はもじもじしていました」
司令官「貴官が鼾声雷の如くやらかすので、なかなか寝付かれなかったからよ」
参謀長「切腹の順序はどうしましょう。私がお先に失礼して、あの世のご案内を致しましょうか」
司令官「わが輩が先だよ」
参謀長「閣下は極楽行き。私は地獄行き。お先に失礼しても、ご案内はできませんね......」
将軍は平素部下から西郷さんと呼ばれていた。
両将軍は、辞世ともなんともつかぬ和歌や、詩をもって応酬された。沖縄を奪取された日本は、帯を解かされた女と同じもんだ、と駄洒落を言われたのを記憶する。後日知った正確な辞世は次の通りであった。

p436 
牛島中将
秋待たで枯れゆく島の青草も み国の春に よみがえらなむ
矢弾つき天地そめて散るとても 天がけりつつみ国護らむ

長中将
醜敵締帯南西地 飛機満空艦圧海
敢闘九旬一夢裡 万骨枯尽走天外

 

p437 最後までよく将兵とともに苦難をともにした平敷屋その他の女性も挨拶をする。参謀長の当番娘が(良家の子女が身の回りの世話をしていた)「閣下のご焼香も済まさないで、洞窟を出て行くのは、誠に申し訳ありません」と述べたとき、長将軍は微かに苦笑された。
参謀長の白いワイシャツの背に、「義勇奉公、忠則尽命」と墨痕淋漓自筆で大書されたのが、暁暗にもはっきりと読める。私を振り返られた長将軍は、神々しい顔で、静かに「八原!後学のため予の最期を見よ!」と言われた。

 

p438 轟然一発銃声が起こった。経理部長自決の拳銃声だった。今度は坂口大佐が両将軍着座の瞬間、手練の早業で躊躇なく、首をはねたのだ。

p442 「高級副官らは自決し、両将軍の遺骸収容に任じた山崎少尉以下十数名が、まだ副官部洞窟におります」、と千葉准尉が報告した。

 
大本営は、理不尽なやりかたで沖縄第32部隊を追い込み、捨て身攻撃で部隊全滅させることを考えていたように見える。大本営内にもプチ近衛がいたのではないかと思える。
一方、第32部隊司令官も高級参謀も、当然ながら、部隊全滅しても、戦争に勝利するわけもないことがわかっている。犬死にであることが。
桜のように美しく散ること、死にしがみつかないことが美学とされた当時、戦争の末期も末期に及んでも、理性的に戦後の世の中を描けなかった人が多かったみたい。それが日本の悲劇。将校の中にも、特攻に懐疑的な人々がいたというのに、なぜ押し切られてしまうのか。貴様、死が怖いのか、みたいに煽られると、沽券にかかわるから?同士討ちをしていたような感じ。
特攻ゼロ戦で、9回も生きて帰って来た人の本がある。まだ買っていないけれど。上官が、戦死の報告を上にあげてから生きて戻ったので、撤回できないから、と何度生還しても、特攻に出されたのだとか。この上官のような輩が怖い。そしてそれにもめげずに生還し、戦後を生きた人の上には神の采配があったとしか思えません。