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「雲南の歴史 アジア十字路に交錯する多民族世界」

川野明正著  白帝社アジア史選書 2013/12/20
 
 

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雲南省が日本とほぼ同じ面積であること。その中に28もの少数民族が生活していること。鉱物資源の産地で、モンゴル帝国の銀の流通を支えたこと。聞いたこともない民族の名前がずらずらとリストアップされています。例えば、プミ族、ナシ族、リス族、ハニ族、ラフ族、ジノー族、ヌー族、ペー族、トールン族、アチャン族、ジンポー族、プイ族、コーラオ族などなど。
筆者の配偶者が雲南省出身で、義父から雲南のことを学ばれたようです。秋篠宮殿下がタイのメコン川にお出ましになられていたのは、やはり意味があったのでしょうね。

川を挟んで1本の綱に滑車で横断する写真は初めて見ました。これは「古代史原論ー契丹古伝と太陽女神」田中勝也著p324に出てきたチベット人の綱渡りの絵とそっくりです。

 

p60 契丹人も進出し、現在雲南西部保山市施荀(草冠なし、日でなく田)県に元軍契丹人部隊の末裔がいます。早くに契丹語は失われ、漢語を話しますが、墓碑に契丹小字を刻みます。現地ではプーラン布朗族や満族に識別されています。

雲南からメコン川流域を南下したタイ系民族は、南宋元朝の移行期に当たる13世紀にはカンボジアのアンコール朝の支配を脱し、スコータイ朝を建て、続いてアユタヤ朝を建てます。また、13世紀には、メコン川流域のシプソンバンナー王国やタイ北部のラーンナー王国などが、雲南タイ族語で「ムン」、タイ語で「ムアン」と呼ぶ各盆地の勢力が、王のもと緩やかに結合した「くに」の形態を摂り、各地でタイ系ムン連合国家の成立がみられ、今のラオスにあったラーンサーン王国も14世紀中葉に成立します。

 

p89 ミャオ族は大別して三つの方言集団があります。自称ムウの中部方言集団(旧称:黒苗)、自称コ・ションの東部方言集団(旧称:紅苗)、自称モンの西部方言集団(旧称:花苗族)が四川南部・貴州東南部・雲南にかけて広く分布します。

モンの人々は焼畑耕作ばかりでなく、19世紀後半の清朝への大反乱が鎮圧されると避難民となり、雲南省流入し、東南アジア各地への移住が頻発します。モンの人々はアメリカ、フランス、オーストラリアまで分布し、ベトナム戦争ラオスの共産化を防ぐためにCIAに訓練されたモンの人々たちが、兵士となり共産勢力と戦ったため、戦後移住を余儀なくさせられました。クリント・イーストウッド主演「グラン・トリノ」はアメリカに移住したモンが描かれます。アメリカには約16万人のモンが居住します。

 

桃太郎伝説との共通点がありますね。

p131 元・張道宗「紀古滇説原集」は蒙氏の出自伝承の九隆伝説を記します。川に流れた桃を婦人が食べ龍の子を産む伝説が今の大理にあり、九龍伝説とそれに関わるモチーフは雲南西部に根強く伝承します。

「華陽国志」「南中志」「後漢書」「南蛮・西南夷列伝」や「水経注」は、夜郎国の始祖竹王伝説を記し、女子が川辺で洗濯し、流れてきた三節の竹が足に入り、泣き声から割ると男子が出て、長じて夜郎侯となり、竹姓を名乗ったとします。

雲南に多いこの種の伝説は、水との関係を語る大陸部東南アジアの王権神話とも関わるようです。

 

p179 元朝が確立すると、雲南は政治の中心となり、クビライの第五子フゲチが雲南王となり、クビライの孫カマラが梁王に封じられます。

元代に移住した雲南ムスリムを代表する人物にサイイド・アッジャルがいます。中央アジアのボハラ(ウズベキスタン)出身です。元朝では中央アジア出身のムスリムは、ウイグル人などチュルク系民族出身者チベット人とともに色目人と呼ばれます。
クビライはチュルク系契丹人、漢人女真人など他民族出身の実務家を抱え、皇帝即位とともに政権の重要な職責を担う官僚に抜擢します。
サイイド・アッジャルはクビライのブレーンの一人で厚い信任を受け、要職を歴任します。一説に雲南ムスリム出身の明初の大航海者鄭和は子孫とされます。

 

p182 マルコ・ポーロの東方見聞録の雲南に関する記事は興味深い。地名はモンゴル読みで雲南は大カラジャン。コメを常食し、ムスリム以外ネストリウス派キリスト教徒もいるとします。滇国で流通していた子安貝雲南でも通貨となり、白い子安貝80個で銀1サジオ(ヴェニスの2グロッシに相当)。

四川・チベット方面では塩塊通貨があり、四川は黄金の延べ棒が流通し、少額の取引は塩塊を使います。交通不便な地方では、塩塊60個や40個で黄金1サジオのレートで有利に交換でき、理由は黄金の買い手がないためとします。

 

戦いになっていた雲南を舞台にしたイギリスとフランスの局地戦争。イギリスはビルマを、フランスはインドシナを植民地にし、国境が隣接する雲南省の利権を巡って、英仏中が激突。生麦事件1862年、マーガリー事件が1875年。そして、知られざる日本と雲南の関係が。

 

p224 1897年イギリスは雲南での鉄道建設権をも清朝に認めさせ、ビルマに敷いた鉄道を延長し、雲南地方進出を計画します。

 

p226 1873年フランス商人デュピュイが雲南への武器輸出を目論み、紅河航行問題でベトナム阮朝外交問題が発生します。交渉は決裂し、フランス代表ガルニエは武力行使に及び、1873年ハノイを占領します。

 

p228 清仏戦争は列強諸国の植民地戦争に絡みとられゆく雲南近代史の開始を告げます。南明政権が示すように、雲南は時の朝廷に敵対した勢力が破れて逃げ込む吹き溜まりの辺境空間です。これは積極的な意味もあり、黒旗軍の働きは、国境辺の残存勢力が、列強の進出に対し、身を艇して中国の防波堤となり、ベトナムで戦います。

 

p232 1901年フランス資本のインドシナ雲南鉄道会社が発足し、1910年7万人の労働者の犠牲や住民の反対運動を経て開通します。

 

p239 雲南の革命派は1909年設立された雲南陸軍講武堂の教官に集中しています。清朝の近代式軍隊、新軍の軍人育成のために設立された士官学校です。日本の陸軍士官学校を卒業して雲南に帰った李根源は、雲南陸軍講武堂の最高責任者を勤めます。彼らは清朝打倒を目論む革命派で、国民党側で重職を歴任します。

 

p245 雲南陸軍講武堂の教官のうち、日本陸軍士官学校の卒業生は24名、日本留学生の総数29人で全体の7割を占める。
中華人民共和国の元老では朱徳四川省客家出身)、葉剣英広東省客家出身)が雲南陸軍講武堂出身で朱徳の影響を受けたとされます。

明治38年日露戦争後に、雲南に日本人教官が数人入り、当時昆明には雲南高等学堂、東文学堂、法政学堂、農業学堂などと合わせて8人の日本人教習がいました。(河合絹吉「雲南」)

 

p246 1902年明治35年に四川武備学堂が設立され、松浦寛威大佐以下4人が招かれ、貴州省では貴陽武備学堂があり、高山公道少佐以下数人の日本人教習がいました。(飯倉照平「雲南と日本人」)

 

p248 1911年10月、雲南清朝新軍に夜重九蜂起を起こし、大中華国雲南都督府を設立します。蜂起では革命派犠牲者150余人、清朝側200人に及ぶ激戦でした。このとき雲南体育学社の加藤仡夫(元陸軍大尉)も軍機局攻撃に活躍しますが、後の四川遠征時に殺害されます。

 

なぜ蒋介石雲南にいたのか、雲南の地理的価値がよくわかりました。それにしても、蒋介石はあちこちで部下の裏切りにあって台湾へ落ち延びたのですね。

 

p257 日中戦争勃発後、西南地方は研修者が雲集します。民族研究の分野では、知識人の移動が現地民族との出会いをもたらし、多くの現地調査が学術目的、辺境統治目的の両面から行われ、空前の学術成果を生みます。中国民族学学会の事務局が置かれた四川省成都や、中国近代民族学の発祥地、昆明は民族研究の中心地となります。
日中戦争による大学の移転と疎開は、日本軍の占領各地に及びます。東北大学北京大学清華大学、天津の私立南開大学は1938年昆明に移転。

 

p260 大理ではミッションスクールの華中大学が喜洲に移転します。華中大学はイエール大学の附属組織で、民家(現在のペー族)の資本家 厳子珍の協力を得て疎開します。

 

p263 連合軍側はインド東部アッサム州のチンスキヤ飛行場から空路でヒマラヤ山脈を越え、昆明に至るルートに切り替え、輸送機でピストン輸送を行います。ヒマラヤ越えは険しい山岳と悪天候、日本軍が辻斬りと呼ぶ隼戦闘機の襲撃で、1000トン輸送ごとに3名のパイロットが犠牲となる困難な航空路でしたが、最後の数ヶ月は1日650機の輸送機が中国側飛行場に着陸します。
また連合軍は、インドアッサム州のレドから昆明に至るレド公路を建設します。標高2600m以上の山岳地帯や険しい渓谷を切り開き、1945年1月に開通します。終戦まで5000台を超える車両が、3万5千トンの物資を輸送しました。

 

p263 1938年から1943年に渉り、日本軍機の昆明空襲が行われます。日本軍の雲南進出は、ビルマルート遮断が主な目的でした。

 

p264 1942年4月日本陸軍第56師団が雲南西部の怒江西部までを占領します。

p265 1944年5月 当時日本のビルマ方面軍インパール作戦の最中でした。日本軍は五六師団がビルマ国境辺で中国軍に包囲されます。日本軍は3か月以上の激戦を戦い、玉砕します。

 

p266 蒋介石第二次世界大戦勝利後、雲南省を国民政府の支配下に置く策略に着手します。ベトナム北部の日本軍の接収に雲南軍を派遣。雲南省の新主席は蒋介石によって盧漢が任命されますが、国民党と共産党の内戦反対の民衆運動が展開され、武力鎮圧を計画した国民党は、1945年12月1日、数百人の軍隊、警察、暴徒を使い雲南大学・西南総合大学などを襲撃させ、犠牲者4人が出て猛烈な抗議運動が発生します。

 

p267 盧漢は中国共産党と密かに連絡を取りつつ蜂起の準備を進め、1949年10月1日、北京で中華人民共和国の成立が宣言されると、盧漢は12月9日雲南省中華人民共和国への帰属を宣言、四川省政府と四川省西部政府も蜂起を宣言します。進退窮まった蒋介石は、12月10日に成都から飛んで台湾へ赴きます。蘆漢は国民党軍の昆明への攻撃を防ぎ、1950年2月に中国人民解放軍を迎え入れます。

 

雲南は国民党軍の大陸最後の抵抗の地となり、元朝と明朝の残部の最後の抵抗の場となった雲南の歴史的役割とも一脈通じます。理由は雲南が中国辺境部にあって、東南アジア内陸部の山地民、平地民の諸地域に繋がり、ひいては東南アジア方面への脱出口を用意します。歴代の流亡者たちは、まさに一筋の活路を見出す可能性を、中国の内地に返り咲く欲望とともに、この土地に見ていたと言えます。

 

雲南の歴史」より少数民族の写真。

蜂須賀小六とか、虎吉とか、蛇の目とか、ヌー族が先祖なのでしょうか???独龍渓谷のトールン族の言葉に近い集団アロン阿龍、と読んでアロンの杖って思い浮かびました。

 

p81 ヌー族(怒族)、自称:ヌス・アノン・ロロ・アヌー(怒蘇・柔若・阿龍)

怒江渓谷は、ペー族、チベット族、ナシ族の土司が各地域を統治し、リス族がヌー族を支配する民族関係です。ヌー族はリス語に長じた人が多い反面、アノン人のように、リス語を主に話す人が増え、自民族言語消滅の危機も生じます。

ヌー族は父系制の血縁組織で末子相続を行い、トラ、ヒョウ、ヘビ、ハチなどの氏族名をもつ氏族制度の名残もみられます。