好きなもの、心惹かれるもの

本、音楽、陶器、織物、手芸品をご紹介します。

秀吉の陣羽織

現在東京国立博物館で開催中の着物展のサイトに、ひときわ目立つ、秀吉の陣羽織が。信長のアゲハ蝶の陣羽織が霞むほど。京都 神護寺にある源頼朝肖像画の着物にも、アゲハ蝶が描かれていますが、それは源氏の家紋だからだと思っていました。なぜ信長もアゲハ蝶なのでしょうか?

 

信長所用陣羽織

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神護寺にある源頼朝肖像画の着物の裾にアゲハ蝶

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blog.kenfru.xyz

kimonoten2020.exhibit.jp

 

秀吉所用 陣羽織

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淡茶地獅子模様うすちゃじししもよう唐織

 

 こちらの秀吉の陣羽織がとても有名ですよね。

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この陣羽織について、素晴らしい考察をされている研究者のサイトを見つけました。

 

この陣羽織に酷似したキリム

http://akagane-k.sakura.ne.jp/a-kai/alacarte/alacarte/kitajima5/kitajima2.htm

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キリムの裁断について

http://akagane-k.sakura.ne.jp/a-kai/alacarte/alacarte/kitajima5/kitajima3.htm

陣羽織の前身頃の襟部分、および後身頃の裾はいずれも絨毯の主ボーダー(カルトーチ)を使っている。襟の部分は主ボーダーにあるカルトーチという枠の横割り半分が現れている。

一方後身頃の裾は、カルトーチが七割以上現れている。裾のカルトーチの上部に走る白地に花柄を描いた細帯はサブボーダーである。

 

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前身頃は、絵が逆になっています。後ろ見頃が逆立ちしない裁断だからですね。着物は肩で切ってはぎ合わせる仕立てをしないので、前身頃と後ろ身頃は繋がっています。秀吉と対面する者は、秀吉の顔しか見ないので、後ろ姿が本命だそうです。

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 陣羽織キリムの主ボーダーに似たキリム

http://akagane-k.sakura.ne.jp/a-kai/alacarte/alacarte/kitajima5/kitajima4.htm

動物文キリム ベルリン博物館蔵 イラン イスファハン16世紀

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カルトーチの絵柄は、秀吉の陣羽織では鹿の戯れ、鹿を襲う獅子、一方ベルリンキリムは走るトラとライオンの走獣文で、かなり図案も色調も違っている。

イスラムシーア派の本拠地コム市(テヘランから少し南)は絹絨毯の製作地として非常に有名である。この製品の小物(長さ1mから1.5m、プシテイ、ザロチャラック)絨毯で見かけることがある。数十年イラン市場で、天然染料のカルトーチ型ボーダーの古いもの(長さ1.5メートル以上)を探しているが出会ったことがない。名古屋の徳川美術館には数枚ある。

カルトーチに動物闘争文が描かれるものは、非常に珍しい。秀吉のキリムのように、カルトーチにも動物闘争文が描かれているのは例外中の例外で、誠に希少価値がある。サファヴィー朝以降、カルトーチに描かれるものはペルシャの有名な叙情詩人“ハーフェズ”“サアデイー”の詩文、あるいは“コーラン”の経文である。

 

 徳川美術館へは何度も行きましたが、絨毯の展示を見た記憶がありません。

 

このキリムはどこで作られたのか

http://akagane-k.sakura.ne.jp/a-kai/alacarte/alacarte/kitajima5/kitajima5.htm

金糸、銀糸を使った絨毯といえば祇園祭の南観音山町内会山鉾の前掛けとして使われていた17世紀ポロネーズペルシャ絨毯である。
アーリア系イラン人の最後のサファヴィー王朝(AD1502年―1722年)の第5代目のシャーアッパース1世(在位1588年―1629年)が1597年に首都イスファハンを建設した。
地元で獲れる優れた絹、綿、羊毛を使った絨毯を作るため、染料植物の栽培、羊の飼育などの徹底した管理の下で、優秀なデザイナー、織匠を集めて、満たされた環境の宮廷工房をイスファハンや隣の町カシャーンに建設した。
最初は新都に建設された宮殿や城に使用する目的だったが、ヨーロッパの王侯貴族への戴冠式記念、結婚式記念として、金糸銀糸を使った超豪華なペルシャ絨毯を贈呈した。その後彼らは家紋、王家の紋章を入れた絨毯を宮廷工房に注文するようになった。

 

どのように日本にもたらされたのか

http://akagane-k.sakura.ne.jp/a-kai/alacarte/alacarte/kitajima5/kitajima6.htm

このキリムも祇園祭の南観音山ポロネーズペルシャ絨毯と同じ経路をたどって日本にもたらされたと考えられる。

 

日本にあるサファヴィー王朝アッパース大王のイスファハン宮殿で使われていた動物闘争文様絨毯(サングスコ絨毯)

http://akagane-k.sakura.ne.jp/a-kai/alacarte/alacarte/kitajima5/kitajima7.htm

イスファハン宮廷工房で織られ、シャーアッバース大王の宮殿で使用されたのち、オスマン帝国の宮殿で使われた。イスラム絨毯の中でもよく知られた二枚のアルダビル絨毯と、傑作中の傑作としてサングスコ家の名前がつけられた絨毯を、サングスコ絨毯と呼ぶが、この絨毯はその中の1枚である。

  

匈奴の絨毯と似ていると思います。ササン朝ペルシアの影響もあると思います。

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 このアカガネ サクラ様の絨毯についての研究サイトは大変専門的で興味深いのですが、目次が全くないので、他にどのようなページがあるのか、さっぱりわかりません。

 

イランの絨毯製造地図と絨毯部位の説明された、このページもありました。

ペルシア絨毯

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http://akagane-k.sakura.ne.jp/a-kai/alacarte/alacarte/kitajima7/kitajima7-2.htm

 

祇園祭祇園祭の山鉾に懸想されている絨毯

http://akagane-k.sakura.ne.jp/a-kai/alacarte/alacarte/kitajima3/contents.htm

平成7年4月群馬県立歴史博物館第50周年企画展 中近東絨毯 

副題“ シルクロードの華”の出版物より

近世初期にポルトガルとの貿易によってもたらされた毛織物は、献上品、
進物品として将軍や高官の手に渡り、特に戦国の武将たちの間では人気を博した。また徳川家康時代に将来されたと推定される17世紀の絨毯が若干ながら
現存している。徳川美術館には徳川家伝来の絨毯が10枚ほど所蔵されている。


同書ではこのような超高級絨毯は最初将軍や元首に献上品として日本に入り、後で下賜されたものが祇園に入ったという経緯を推定している。これが現在最も確かな伝承経路だと考えられる。イランなら国宝級のこの絨毯が、祇園祭の町内会所蔵として眠っている。徳川美術館、大阪の国立民族博物館、カネボウ美術館、白鶴美術館その他個人蔵の希少な絨毯が分散している。

イランのような多民族国家の中でも、ペルシャ絨毯を世界に知らしめた極めて独創的なデザインを生み出した遊牧民がいる。イラク、トルコ、イランの国境にまたがって住んでいるのがクルド族である。イランのクルド人はクルデスタン州の州都サナンダッジ市に多く住んでいる。この町は昔セネーと呼ばれて、ペルシャ絨毯の織り構造を上記に示したが、これを別名セネー織りとも呼ばれている。それ程この町から多くの優れた絨毯が生まれた証拠である。

絨毯“シルクロードの華    群馬県立歴史博物館
祇園祭の美        京都市自治100周年記念特別展
The story of Carpets Essie Sakhai
Persian Carpet Carpet Museum of Iran

 

こちらの絨毯店のサイトも面白いです。

狩猟文様絨毯は1870年にローマのクイリナーレ宮殿で見つかった。

パルチアン・ショットは根強い人気のモチーフなんですね。

www.fleurir-inc.com

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ササン朝ペルシアのコスロー1世の時代、金糸銀糸に加えて宝石までついた絨毯があったとか。踏んだら痛そう、と思うのは庶民の感覚でしょうか。

 

アッバス朝期のイスラム法学者であったアブー・ジャーファル・タバリーが著した『諸使徒と諸王の歴史』には、ササン朝の都クテシフォンの王宮に敷かれていた絨毯についての記述があります。

「ホスローの春」あるいは「バハレスタン」(ペルシャ語で「春の国」の意)とよばれるその絨毯は、ササン朝の最盛期を築いた第21代君主ホスロー1世の治世下において製作されたもので、四季をテーマに製作された4枚のうちの1枚とされます。

この絨毯は縦140メートル、横27メートルの巨大なサイズ。絹の地に金糸や銀糸、様々な宝石を用い花々が咲き乱れる春の景色が織り出されていたといいます。可能性としては綴織のキリムに宝石・貴石を縫い付けたもの、パイル織であれば綴織を組み合わせたポロネーズ絨毯と同じ「スフ」の地に宝石を縫い付けたものなどが考えられます。

2009年にカタールで開催されたサザビーズのオークションに出品され550万ドルで落札された「スター・ラティス・カーペット」は、メディナ預言者のモスクへの供物としてインド中西部バローダのマハラジャの命により1860年から5年の歳月をかけて製作されたもので、100万個以上の天然のバスラ真珠のケシ(小さな真珠)にダイヤモンド、エメラルド、サファイア、ルビーが縫い付けられていました。スター・ラティス・カーペットは絨毯ではなくスーザニですが、もしかしたら同じようなものであったのでしょうか。

www.fleurir-inc.com

こちらでも、パジリク古墳のことが紹介されていました。f:id:MeinFavorit:20200709192645p:plain

 

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www.fleurir-inc.com

 

 

千石コレクション

兵庫県立考古博物館加西分館に、古代の鏡302枚が千石コレクション(寄贈した収集家)として写真が見られるのはありがたいですね。初めて見たタイプの鏡をこちらから拝借します。

www.hyogo-koukohaku.jp

 

鋸歯縁鏡 16.3cm  紀元前15世紀 商時代   

十字架の透かし模様が特徴的。歯車のような周囲の縁も独特ですね。

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四山字紋方鏡 紀元前3世紀 11.4cm

中央の、ハートが4つあるのが可愛らしい。

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龍紋透彫鏡 紀元前4世紀 戦国時代 9.4cm

キルギスアイヌの模様によく似ていると思いました。

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漆彩龍紋鏡 紀元前3世紀 漆 13.5cm

漆の鏡、初めて知りました。保存状態が良いのか、まるで新品のようですね。

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漆彩龍紋鏡 紀元前3世紀 漆 13.9cm

躍動感のある図柄ですね。

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鍍金龍紋透彫鏡 紀元前2〜1世紀 前漢 5.3cm

華やかな金龍です。5cmと、とても小さいので、お守りでしょうか?服に縫い付けたのでしょうか、he縁の上と下に穴があります。

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白玉象嵌獣紋鏡 紀元前2世紀 前漢 9.3cm

鏡の中に異素材の石を嵌め込んだ、珍しい鏡ですね。中央は桃?

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鍍金方規矩獣紋鏡 紀元前1世紀 前漢 14cm

鳥、龍、狼がいます。鍍金されていると、かなりゴージャスですね。

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鍍金対置式神獣鏡 2世紀 後漢 14.9cm

漢代に流行した陰陽五行説や神仙思想に基づいた様々な神仙や霊獣が半肉彫りで表現されている。日本では、主に古墳時代前半の古墳から出土する例が知られている。

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金粒珠玉象嵌宝相華紋六稜鏡 8世紀 唐時代 8.8cm

宝飾が綺麗です。小さいので、女性用なのでしょうか?

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金銀平脱童子騎獣紋八花鏡 8世紀 唐時代 30.5cm

顔がグリフィンで、体が犬?

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金銀平脱唐子唐草紋八花鏡  8世紀 唐時代 29.7cm

唐子が可愛らしい。唐草模様は、ササン朝ペルシアの影響と思います。

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金銀平脱禽鳥草花紋六花鏡 8世紀 唐時代 25.1cm

正倉院螺鈿鏡にとてもよく似た意匠です。上品で優美です。

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螺鈿双鸚鵡紋八花鏡 8世紀 唐時代 16.5cm

螺(ら)とは巻き貝の総称で、鈿(でん)とは何かに埋め込んで装飾することを意味する。螺鈿は、ヤコウガイなどの貝殻を美しい虹色の光沢層がでるまで磨き、紋様の形に切り、暗褐色の樹脂に埋め込んで仕上げる装飾技法をいう。貝以外に琥珀トルコ石ラピスラズリの細片で飾られることが多い。夜光貝は南洋産、宝石はミャンマーアフガニスタン産と考えられており、広範囲にわたる交易が行われていたことを示している。

大きさは小ぶりですね。これらの鏡は盗掘された宝物の一部なのでしょうか?正倉院の同様の螺鈿細工を作った人々と同じ職人さんなのでしょうか。

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正倉院螺鈿鸚鵡、螺鈿紫檀阮咸。4弦琵琶です。聖武天皇が弾かれたらしいです。

何cmなのかは、探しましたがわかりませんでした。直径35cmはあるのではないでしょうか。

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高句麗の石垣

以前集安の高句麗時代の古墳の壁画を見ましたが、同じ記事に山城の城壁の写真がありました。以下の2枚しかありませんが、どう見ても、日本の城の石垣と瓜二つですね。

 

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高句麗遺跡の中で、要塞は壁画の墓と同じくらい価値があります。中世戦争では、 主に遠隔射撃兵器が使用され、要塞は最も重要な防衛施設の1つと見なされていました。どの国も要塞を建てましたが、高句麗は耐久性のある石の壁を作る技術で有名でした。これまでに数百の要塞が高句麗に属すると確認されており、そのほとんどが山の要塞です。それらは通常、いくつかの谷に囲まれた、水資源の豊富な地形に建てられました。 そして山の尾根は、多くの人々を収容し、長い戦争に耐えることを可能にしました。高句麗様式の壁の建設は、レンガの敷き方がうまく切り取られて連結された石のサイズによって特徴付けられ、防御能力が大幅に向上しています。この種の要塞は、前部からより遠い後部領域までの戦略的に重要なポイントに構築されます。高句麗の要塞は、高句麗が約1000年間、東洋で最も強力な封建王国の1つになることを可能にするために不可欠でした。

Preservation of the Kogryo Kingdom Tombs

http://whc.unesco.org/uploads/activities/documents/activity-275-1.pdf

 

古代の水筒?

大変珍しい土器です。携帯用の水筒?

 

「和田家文書のスキタイ・ゲルマンについて」西坂久和 に以下の文章があります。

 

和田家文書では、「黒竜江を遡り、モンゴルから西山靼へと通じる北方草原の道」が発達していたと伝えています(竹 田侑子氏による要約)。これらの道は、縄文時代から交易路 として発達していて、全ユーラシア的に共通な文化圏を形成 していたのではないか。

https://iush.jp/uploads/files/20191119162225.pdf

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日南田遺跡9号住居出土

 

この銀製に金の鍍金の壺も、水筒のような気がするのですが。右に見える模様はキルギスのものとよく似ていますね。中央に座っているのは鹿。唐草模様の縁取りの飾りもあって、ペルシアの影響もあるようです。

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10世紀遼時代 内モンゴル自治区赤峰市洞後村窖蔵出土 高26cm 長21cm

 

ここで、遊牧騎馬民族は文字を持たなかったという噂を吹き飛ばすような調査結果の記事を発見。18という数を表すのに、なぜダビデのマークを使ったのでしょうか。景教徒だったのでしょうか。

 

看点快報というサイトで、富察春兵氏が書いた記事

司馬遷匈奴人に文字はない、と書いているが、考古学的発掘調査により、匈奴フン族)が文章を書いたことが確認されています。モンゴル高原のアルシャンヤン阿尔善岩地域とチャガン查干河地域では、中国、モンゴル、ロシアの考古学者によって分類された520のシンボルが銀山岩にもあります。彼らは明らかに独自のシステムを持っています。これは繰り返し発生するシリーズであり、単一または時折の兆候ではありません。これらの字の一部は、古代の北ヨーロッパルーン文字にも似ています。」

 

著者: 芒·牧林

古代突厥語の起源を探る新しい探求

 

2004年の中国国家古代文字研究協会のシンポジウムで、古代突厥語のアルファベットはどこから来たのか? この疑問は人々の研究のホットな話題となりました。 古代トルコ語と北欧地域で使用されている「ルーン文字」を比較した後、全会一致で確認したことは、 両者は非常に似ており、 そのシンボルシステムは、点、線、孤立、円で構成されており、その一部は同一だということです。

1889年モンゴルのオルホン草原を率いる調査チームは、古代突厥語の経典を刻んだ2つの石碑を発見しました。 この記念碑は後に名前が付けられました 「Chitler Monument」と「Vega Khan Monument」 。 デンマーク、ロシアおよびその他の国の考古学者は、モンゴル北部のエニセイとシベリアの草原にて古代突厥語の碑文が刻まれた石版を発見しました。 これらの碑文は、「エルフン」、「エニセイ」、「シベリア語」と呼ばれたり、「エルフ・エニセイ」と見つけた地名に応じて呼ばれたりしました。  さらに、これらの碑文文字は、北欧地域での考古学的発見の初期に「ルーン」と呼ばれる文字に非常に似ていることが発見されたため、2つは同じ種類のスクリプトであると誤って考え、「ルニ」と名付けました。 1893年までに、デンマーク言語学者V.トノムセンはこれらの碑文を最初に解釈し、記録したと判断しました。以来、古代トルコ語は北欧地域の「ルーン文字」とは区別され、「トルコ語ルニー」と呼ばれ、最終的に「古突厥文(古代トルコ文字)」と名付けられました。

「古代突厥文Ancient Turkic」は、39の基本記号に加えて、特定の記号の異形および異形を含む合計90の記号を含む音素と音節の混合です。 碑文、写本などの資料により、古代突厥語の発生は552-744 AD蒙古草原で活動していた突厥汗国時代であると学者達は認識しています。

古代突厥汗国、回纥汗国(ウイグル可汗国)、トルファンの高昌回鹃王国、および古代突厥語を話す他の遊牧民族グループがこの文字を使用しました。 また、黠戛斯、骨利干など言語的に近い民族も、使用しました。

突厥人は、中央アジアのソグド人を経由して、古代エジプトフェニキア人の書記体系のアラム語に接し、古代トルコ語を作成しました。たとえば、古代トルコ語スクリプトを最初に解釈したトムソンの比較研究の結果、古代突厥文の38文字に含まれる23のシンボルは、アラム文字と同じまたは類似していました。 アラム語がエランや中央アジアの他の場所を通じて古代トルコ語に導入され、古代トルコ語の記録に変換されたのではないか。

Gulyashtoni(K y shtoniy)は、北梁が北魏により絶滅した後(AD 439)、突厥族阿史那氏の祖先が沮渠氏の残党を追って、トルファン盆地に高昌王国を樹立したと信じていました。ずっと前からそこに住んでいたソグド人を通じて、阿史那氏はアラム文字に接し、突厥語に適合させて、古代突厥文字を作成しました。キセレフ、シェルバックなどは、西暦6世紀と7世紀に西突厥人が七河地域にトルコセンターを設立したと信じていました。そこには多粟特人(ソグド人)がたくさんいました。

山田信夫は、六世紀後半、木杆可汗在位时の553—572年、中央アジア征服の際にアラム文字(阿拉美文字)に通じたことが可能だと言います。

古代突厥人は一族と部族の印を使う習慣があり、どこに行っても岩にこれらの印を刻みました。一部の学者は、古代突厥語のアルファベット記号がトルコ語の刻印記号に非常に類似していることに気付いたため、古代トルコ語はその「刻印記号」または「岩絵記号」に由来すると示唆しました。

内モンゴルの著名な考古学者盖山林氏は、30個の記号を引用し、古代突厥文字と比較し、 「古代突厥文字は岩絵記号から開発されました。 突厥語の文字のほとんどは、岩絵のシンボルから来ています。突厥語のアルファベットは、古代からの遊牧民のロックアートの昇華の産物です。突厥語は、岩絵のさまざまな記号(標識、マーク)から直接派生しています。」と述べました。

ギリシャ語のテキストは古代エジプトフェニキア語のスクリプトに由来し、ソグド語のテキストはアラビア語の改革に由来し、チベット語サンスクリット語に由来し、日本語のカタカナは漢字に由来します。但し、「古代突厥語」と「アラム語」の間の継承関係の明確な痕跡は、同じまたは類似した形式の小さなシンボルを除いてありません。 たとえば、同じ記号の発音を古代突厥語とアラム語の間で比較すると、記号の発音に対応する状況はありません。古代突厥語とアラム語の間に父系の可能性はありません。

中国の突厥学研究の専門家である耿世民氏は、次のように指摘しました。 突厥人がいつ、どこでアラム語接触し、それを古代突厥文のプロトタイプとして使用したかという問題は、まだはっきりしていません。古代突厥語は「岩絵記号」と「馬印」記号のに由来し、それには一定の理由と事実があると私たちは信じています。 しかし、古代突厥語のスクリプトの誕生の起源に関しては、議論は十分になされていないと感じています。たとえば、薛宗正氏によって特定された古代突厥語の「馬印」の原型は、記号の形式の点で、古代突厥語の作成の記号システムと密接に関連していません。古代突厥起源の理論をより完全にし、歴史的事実に近づけることを望んでいます。

(1)古代突厥語の祖先は、古代北部草原遊牧民の氏族と部族の刻印されたシンボルシステムです。(古代の岩絵のシンボルと牛と馬のマークを含む)

広大なモンゴル高原アルタイ地方、遼河流域、シベリア地方、銀山、ヘラン山脈には、似た形や似たスタイルの岩絵の符号が沢山あります。その数は500種類以上です。上記の地域の荒野と山岳地帯の岩に残っているペトログリフは、山戎、蛮夷、 猃狁、丁令、匈奴、东胡、鲜卑、柔然、拓拔、突厥、回鹘他の多くの遊牧民族を含む人々と共に彼らの文化的遺産を記したものです。時代の上限は5、000年前の新石器時代で、下限は紀元10世紀頃です。これらのペトログリフのどれがどの国によって作成された遺産に属しているのかについては、はっきりと区別するのは難しい問題だと思います。

たとえば、O、+、1、X 、、、、、などの記号は、新石器時代の陶器の記号から「匈奴」や「古代突厥語」まで見ることができます。夏商周時代の古代碑文、甲骨文、漢字の前身の女真文、契丹文等、古代の祖先が使用したシンボルの作成と刻印から作成されたと考えられています。古代の古代突厥語のアルファベット記号から、それらの古代の氏族や部族が刻印されていることがわかります。また、古代の突厥人は、文字を作成したときに、先祖が残した岩絵のシンボルの継承を選択しました。筆者は、何千年もの間受け継がれ、残された北部遊牧族の祖先によって作成された、岩絵記号と刻印記号が、古代突厥文字の創始者であると信じています。

(2)「匈奴」の符号は、古代突厥語のスクリプトを作成するための青写真です。 古代突厥語の90の符号は、基本的に匈奴文と同じで、同じ頻度で90%以上に達します。

匈奴‘戎书’”とは、匈奴が作り、使用する独自のスクリプトを指します。 匈奴フン族)は確かに独自の言葉を持っていました。

元史訳補足の報告によると、 「匈奴阿提拉アッティラは、西部王国の使者と連絡を取り、古い詩や聖歌がありました。ローマ人にはフン族があり、匈奴にもラテン語があります。」 

匈奴文とはどのような文字でしょうか。モンゴル語《甘珠尔经》(つまり《大藏经》)の第六十卷九十一面に匈奴文字があります。

9世紀末の北欧地域のハンガリー人とアヴァール人(柔然人)の墓から、点、線、フック、孤で構成される死文字が見つかりました。 人々はそれを「Runic文字」と呼びました。筆者は、匈奴柔然の遺物に刻まれた文字を、ロシア、モンゴル、ハンガリーブルガリア、ドイツのスカンジナ地域、中国の承徳地区にある匈奴の古墳と古代都市遺跡から収集し、136個の匈奴符号を整理しました。

ここで収集された136個の「匈奴」符号には上記の20種類以上のシンボルがあり、それらは異なる符号の共存です。 古代には、文字が完全に標準化される前は、甲骨文のように、記号が上下左右逆に書かれるのが一般的でした。

第二に、匈奴の符号は、一族や部族として一般的に使用されるものと混合されています。第三番目に、匈奴の符号は、ハンガリー人が北ヨーロッパに移動したときに持ち込まれたRunic文字を基本的に含みます。これらは、800年以上(3世紀から11世紀)に広く使用されています。「ルーン文字」は、元のハンガリーの標準化の遺物かもしれません。

2000年以上前に出現した「匈奴文」(つまり、匈奴が西に移動する前に創生された古代匈奴語)の起源を追求すると、古代北部の遊牧民とその祖先に由来したと明確に答えることができます。新石器時代に入ったときから、祖先が作成し使用し、子孫に受け継いだ、核家族の刻印された印システムです。

注:「紅山文化」の初期の陶器は、内モンゴル翁牛特旗ウェングニュートバナーにある石棚山の古代の墓から発掘されたもので、年代は約6000年前です。 西安の盤浦と馬祖廟から発掘された陶器の人物像は5000年前に遡ります。

時代が不明ですが北米で見つかったインディアンの符号文は、1万年前のアジア大陸からのインディアンの祖先によってもたらされた文化的遺物であると推定できます。 ブラジルの岩画の符号もそうです。祖先から継承され、広く使用されている、モンゴル人種のさまざまな支部の氏族および部族の刻印された符号です。

その後、モンゴル人種族と部族の複製、分化、移住により継続的に変換され、追加されて、現在アジアの広大な地域全体で見られる多数の刻印、符号が形成されました。 陶器に刻まれたものは「陶符、陶文」と呼ばれます。 生産および生活用具に刻まれたものは、「銘刻記号」と呼ばれます。 金属製の鈴、三脚、ナイフ、通貨などに刻まれているものは「銘刻」と呼ばれます。

“金文”、“甲骨文”、“漢文”、“匈奴文”、“彝文などのさまざまな古代中国の文字は、祖先から持ち帰り、新しい活力を与えるために使用した一族の刻印記号です。

従って、匈奴文は、北部草原の遊牧民族によって作成された最初の文字です。 この事実は、古代突厥語と匈奴語が、岩絵に現れる古代の氏族や部族の印、符号とまったく同じであることを示しています。

古代突厥語と匈奴語の間にはおそらく何らかの起源の関係がある。理由は、 まず古代の突厥語のアルファベットを「匈奴語」と「ルーン文字」の記号と比較し、北欧地域の発音と同じ割合が90%以上です。古代突厥語のアルファベットと匈奴語の文字と匈奴語のルーン文字異体字の比率は全く同じで、3つの関係を反映しています。

匈奴族は、古代突厥族より前の、モンゴル北部草原の遊牧民の先駆者でした。刃先が尖って長く、柄が真っ直ぐで文字の彫られた匈奴刀が、承徳と張家口で発掘された一世紀の匈奴の古墳で発見されています。日本人が手に入れて、たくさん日本に持っています。

匈奴の「黄金の肖像」は、モンゴルのバオリゲン県バエルケのカンアイスムの領土にある匈奴の古墳から発掘されました。 炭素14の測定によると、墓の被葬者の年齢は1920±40歳です。匈奴が西に移動する前(西暦1世紀頃)の作品であることが確認されました。

突厥人が文字を作成して使用する数百年前に、匈奴が文字を作成して使用したことが確認できます。古代突厥文字は匈奴文字の後に生まれ、それらの符号は同じ頻度で非常に高いです。後者は前者のシンボルシステムを借用し、それを変更して突厥語によって作成された文字に適合させることができます。多くの歴史学者は、突厥民族は丁灵人とスキタイ人(斯基太人)融合によって形成されたと考えています。

歴史的な記録によると、イラン言語体系のスキタイ人(中国文学では「塞种」と呼ばれ、モンゴル語の​​モンゴル人は「ソック」または「サック」と呼ばれていました)は、当初、コーカサスを経由して黒海北部の中央アジアの草原から移動し、额尔齐施Irtysh川流域に来ました。 何百年にもわたって血を流した地元の丁灵人族と結婚しました(丁灵の母、スキタイ斯基泰の父) 。西暦初期の頃铁勒部族は、匈奴族の部下となりました。3〜4世紀後、彼らは匈奴末裔の柔然族の部下になりました。 紀元6世紀までに、高昌(別名铁勒)は柔然を倒し、突厥汗国を建てました。それ以来、突厥民族は政治史の舞台に登場したのです。

800年を超えるこの期間、突厥人とその祖先は、常に匈奴とその子孫である柔然と密接に関係し、砂漠の北と南を統治していました。著者による調査の後、突厥語、匈奴人、柔然人が話す言語は、アルタイ語族のいくつかの比較的独立した言語グループに属しています。このため、突厥人はモンゴル高原で最も発展した文化である匈奴文化の影響を受けました。匈奴とその子孫である柔然との間の長期にわたる密接な関係の中で、突厥人が匈奴人の記号体系を使用して独自の「古代突厥語」を創るのは自然なことでした。

古代突厥文学の創設の基礎となっている土壌はどのようなものでしょうか。突厥語族の民族グループの一族と部族の印によって作成されたテキストだと思います。 Turkicはその氏族の刻印を「Tamγɑ」と呼びました。モンゴルの高原に住んでいた他の遊牧民族のように、古代突厥人の祖先は、古くから一族と部族の印を持つ習慣があります。乌古思可汗ウグス・カーンは、紀元前2〜3千年に住んでいた突厥人と蒙古神の祖先でした。ウギス、突厥族のそれぞれに独自のロゴと動物の刻印があり、彼らはこれらの刻印を使用して、自分の動物を識別しています。

突厥人の「馬の印」が実際に彼らの一族と部族の印であることは間違いありません。 突厥人は北部草原の遊牧民と同じです。彼らは紋章を示すために、氏族の印として旗にこれらの印を描いただけでなく、協定の印としてそれらを印刷しました。彼らが草の上で大規模で重要な集会と犠牲を行ったとき、祭りのとき、収集された岩にそれぞれの刻印を記念として刻印しました。それはブランド化され、牛、馬、ラクダなどの大型動物の特定の部分に刻印され、一族のものであることを示します。 この習慣は非常に一般的です。カザフスタン文化史」によると、彼らは古代から受け継がれた一族の印を使用する習慣を記録しています。

モンゴルの高原を支配する匈奴文化、特に匈奴の言語に加えて、古代から継承された氏族の刻印の符号に基づいて創造された後に生まれましたこの結論は、古代突厥語が生まれた歴史的事実と、より一致していると思います。

 

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河上邦彦教授の連載コラム

神戸山手大学 河上邦彦教授のサイトを見つけました。細かいところがよく説明されていて、図が参考になります。壁画の犬と、現代の犬がそっくりなこと。

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唐代古墳の壁画

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西安近郊の犬

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唐代の壁画

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殉死をやめて埴輪にしたように、馬を屠るのをやめて馬の埴輪や絵馬に変わっていったということなんですね。

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玉衣に、このような意味があったとは。

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二千年前の雑技団。東大寺大仏のお披露目の時にも、雑技団来ていたらしいです。長安から来ていたのか、日本在住だったのかまではわかりませんが。

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漢代の彫刻

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藤ノ木古墳の馬具に、象や鳳凰があるのは知っていましたが、舌を出した鬼まで魔除けについていたんですね。河上教授の作画が素晴らしいです。

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岡山県倉敷市女男岩遺跡出土 

弥生時代末期の有力者のお墓に伴う溝の中から発見されました。筒状の高い台の上に家形の土器が載っています。 家屋は柱と壁をもった4間×3間の構造で表現されており、 全国でも数少ない弥生時代の建物構造を推察することがで きる資料です。さらに、埴輪出現以前の出土遺物であり、 埴輪について考える上でも重要な資料です。

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雲南省タイ族の村に、これによく似たものが建っていたと書かれています。

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王墓山ってズバリですね。四天王寺もそうですし、古代の神社や寺のすぐそばまで、海が迫っていたと言います。

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奈良三彩もあったんですねぇ。

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画家高山辰雄、平山郁夫

20代の五嶋みどりさんが、高山辰雄氏の画集が好きでたくさん持っている、とドキュメンタリーで語られていたので、初めて検索しました。いわさきちひろ平山郁夫を足して2で割ったような感じです。

 

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シルクロードの絵も多い平山郁夫

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「失われたミカドの秘紋」

加治将一著 祥伝社文庫 2014年

 

日本語とヘブライ語に共通点があるということは、多くの本が出ています。例えば、ヘブライ語でヤマトとは、ヤー・ウマト、神の民という意味であるとは読んだことがありました。

この本では、漢字が聖書の故事に基づいて作られているという驚きの仮説と、日本語と古代突厥語が似ているという説が新しい気付きです。突厥族が日本に住んでいたことは、小林惠子説でお馴染みでしたが、古代トルコ語と日本語に共通点があるという具体的な例を読んだのは初めてで面白いです。以前より、日本語、韓国語、トルコ語は同じウラル・アルタイ語の範疇にグループ分けされていることは知っていました。

 

p428 古代トルコ語 オホシディ 日本語 おいしい

   古代トルコ語 アカル   日本語 あかるい

   古代トルコ語 トルト   日本語 とる

p432 古代トルコ語 ソギーク  日本語 すごい

   古代トルコ語 ヤワッシュ 日本語 やわらかい

   古代トルコ語 カッティク 日本語 かたい

   古代トルコ語 ガウガ   日本語 がやがや

   古代トルコ語 グラット  日本語 ぐらっと

 

騎馬民族がもたらした日本のことば」東厳夫著 2009に書かれているそうです。この東氏の語学歴がとんでもなく幅広いですね!

東 巌夫
1924年鹿児島県に生まれる。国立鹿児島高等農林学校(鹿児島大学農学部の前身)を卒業。東京学芸大学付属世田谷中学校教諭、東京学芸大学理科教育学の非常勤講師を定年退職の後、1989‐92年、北京中央民族学院(北京中央民族大学の前身)に留学。さらに続く10年間毎年4ヵ月留学して、ウイグル語、古代テュルク語、ロシア語、モンゴル語満州語を学ぶ。その他の言語学習歴は、独・仏・中・韓・ギリシャラテン語に及ぶ。

 

またキリストの墓が青森にあり、十字架にかかったのはキリストの弟だとか、開封ユダヤ人が多く住んでいたと以前読みましたが、中国大陸にて皇帝以下、ここまで景教が盛んであった時代があったとは、思ってもみませんでした。

 

p377 チャイナは、仏教より桁違いに早く、ゾロアスター教ユダヤ教キリスト教に染められていたという歴史です。一足も二足も先に西の諸宗教の漢字用語があった。実はチャイナの主人というべき宗教はユダヤ教キリスト教で、先にそっちの用語ができていたと考えるべきではないか。それを後発の仏教が借用したと考えられるのです。

したがって「沙門」と言う漢字も仏教の出家僧ではなく、キリスト教のシモンの音写で、宣教師あるいは熱心な信者を意味していた、というのが僕の見立てです。

 

p386 唐の太宗皇帝がキリスト教を厚遇した。三代目高宗皇帝は、長安ならびに諸州に景寺の建設を奨励し、アッシリア東方教会の宣教師アブラハム、漢名:阿羅本に「鎮国大法主」の称号まで与えている。

空海は唐から帰国して、福岡宗像市に鎮国寺を造っている。また空海長安から聖書を携えてきたという噂がある。空海のいた西明寺と大秦寺は地理的に近かった。石碑「大秦景教流行中国碑」によれば、玄宗、粛宗、代宗もキリスト教景教)を敬っている。大秦寺、光明寺大慈恩寺、西明寺、鎮国寺すらキリスト教会だったと考えるのは勇み足だろうか?

 

さてと、仏教と景教が混じっている感じがしますね。それに、マニ教ゾロアスター教聖徳太子の時代には混じっていたようです。仏教だと思っていたものが、ヒンズー教の神々も入っていますし、混じりっけなしの仏教ではなかった気がしてきます。お寺の建築にしても、ペルシア、インドの影響が見られたのですから、教義においても他宗教の影響があってもおかしくないでしょう。キリスト教マニ教の影響も受けていると書いている本もありますし。改めて、仏教だと思っていたものが、何であったのか、少々混乱してきます。臨済宗芥川賞作家の玄侑宗久氏は、かなり以前から、カトリックキリスト教と仏教はとてもよく似ている、と書かれています。

保有政氏の動画でもヤが何を指すか、指摘されています。

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https://www.youtube.com/watch?v=78C8pPVbRVk