好きなもの、心惹かれるもの

本、音楽、陶器、織物、手芸品をご紹介します。

山型冠あれこれ

多少の違いはありますが、なぜか山型を好む王族たちがいました。

 

ウイグル王族供養人像 10〜11世紀

麻布の幡に描かれた図

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日本の十二単の柄に似ています。

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山にも出にも見えますが、鹿の角と、小鳥もついています。

モスクのように上が玉ねぎ形になっていますね。

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 新羅だけでなく、この山が縦に3段や4段の冠は、九州でも出土しています。慶州の古墳から出土する宝物は、日本のとよく似ていることが多く、親しい関係だったようです。

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中山国国王の野営テントの装飾

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左、契丹国黄金の人形

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奈良ではなく、太宰府倭国の都であった、と考察する古田武彦氏の本から。福岡には、都を示す地名も古墳もあるようです。法隆寺は、太宰府にあった寺を移築したという本も、建築家が出しています。

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なぜか、日本の神社に三叉矛を頭につけた人形があります。九州だけでなく宇都宮にもありました。鹿児島、弥五郎どん。隼人の統率者であったという言い伝えがあるそうです。

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突厥帝国とササン朝ペルシアの地図

聖徳太子の時代からその2代目世代が活躍した地図が欲しいと思っていたら、分かりやすい地図がありました。NHK新シルクロード」プロジェクト編著 「NHKスペシャ新シルクロード2草原の道-風の民 タクラマカン-西域のモナリザ」(NHK出版 2005)より (筆者:矢部裕一・内藤みどり) を紹介して下さっていたブログからです。

内藤みどりさんは、突厥の歴史を早稲田大出版から出されている学者です。小林惠子先生は、この達頭可汗こそが、聖徳太子でもある、と書かれています。

「636年ローマ軍の救援より早く来たアラヴ軍による首都クテシフォン陥落後、ヤズドガルド3世はトハリスタン地方のブハラに、ペーローズ3世はクンドゥスに逃れた。」

と小林惠子説年表に書いたものの、ブハラってどこ?クンドゥスは?とパッと地図が頭に浮かばないので、突厥可汗の牙城も記載されたこの地図は便利ですね。

引用したブログ様のサイトから地図を拡大できます。

以下引用:

「泥利可汗(ニリ・カガン)が亡くなった頃、達頭可汗(タルドゥ・カガン)はモンゴリアに現れ、大可汗都藍可汗(とらん・カガン)と提携して突利可汗(とつり・カガン)を南に追い、都藍可汗が部下に殺されると、ついに大可汗の地位に立った。かつて西面可汗であった達頭可汗は、東ローマのマウリキオス帝に手紙を送り、この時叛乱を平定して全土を統一したことを誇っている。しかし、西面可汗達頭が大可汗位を簒奪したこと自体、突厥がまだ東西に分裂していなかったことを示すと考えられる。

その後、達頭(タルドゥ)は国内の大反乱に加え隋の討伐を受けて、603年に吐谷渾に走入した。隋末、中国北辺の群雄はみな突厥の力を借りてしのぎを削り、その中で唐朝が成立したことは有名である。しかし一旦全国統一した唐には勝てず、630年、突厥(第一)可汗国は滅亡した。七世紀の初め、ほぼ唐朝の統一と並行して繁栄した独立可汗国西突厥は、達頭可汗(タルドゥ・カガン)の孫、統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)の大発展によって築かれた。かつての西面可汗国を受け継ぎ、ジュンガリアから、天山山脈の草原を西に黒海付近まで最大勢力範囲を回復し、その統治機能を充実させていた統葉護可汗が、牙庭を東部天山の北から西方の「砕葉(スイアブ)」(現キルギスタン共和国トクマク付近)に移したのは、ササン朝ペルシアとの対立も激しく、黒海に至る西方草原で活躍していた多くの部族の統制に力を注いだ結果でもあると思われる。一方、南はソグディアナからヒンドゥクシュ山脈にいたる地域を確保して、アム河の南、エフタルの根拠地であったクンドゥズを副牙とし、パミールを東に越えて西域南道と北道の諸国に通じる状況にあった。長安からインドに行くため、玄奘が西部天山の北麓砕葉に統葉護可汗を訪れた理由は、その保護なしに中央アジアを行くことができなかったからである。

統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)に会った玄奘は、その牙庭の状況に驚いた。「可汗は長い髪を緑色の錦帯で巻いて後ろに垂らし、その前にはしとねを敷いた上に宮廷官たちが二列に座り、その後ろには護衛兵が武器を持って立ち並んでいた。彼らは錦織の華美な衣服をつけて輝いており、草原の君とは、このように華美であるものか」と詠嘆している。

一方、達頭可汗(タルドゥ・カガン)も統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)も、ソグディアナの中心サマルカンド王に娘を与えたことに注目したい。また、統葉護可汗は、「西域諸国すべての王に、(部族長に与える)イルテベルの称号を与え、トドンを派遣して監視させ税を取り立てた」。オアシス民の城郭都市の規模は小さく、彼らは、東西に繋がる道―シルクロード―を利用する中継貿易で利益をあげ、繁栄してきた。それに対して、オアシス民の生産する穀物や日用品、そこに集合する多くの商品は遊牧民にとっても重要で、貿易や税の対象とされた。それゆえ、彼らはオアシスとその商業活動を保護し、花とミツバチの関係にも似て、共栄を図ったのである。」

 

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ethnos.exblog.jp

玄奘三蔵が如何にもてなされたかの描写が素晴らしいです。

ethnos.exblog.jp

 

 もう1つ別のブログ、「ウイグル族の歴史の深淵」も興味深いです。

http://mikiomiyamoto.bake-neko.net/uigurhistory1.htm?fbclid=IwAR25UjvXA_nReD1QpWr5Os8lf_4G_FFP_GIBDWVD7wxMDPMUOV4IMIrb9VY

「騎馬民族国家 日本古代史へのアプローチ」

江上波夫著 日本公論社 1984

 

昭和帝に評価された考古学者だったのではないでしょうか。受賞歴から見て。

wikiから

宝物はカラーで見たいので、この本に掲載してあった白黒写真に関連した出土品を探して掲載しました。

スキタイの黄金イヤリング

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革製 朝鮮慶州 天馬塚古墳出土

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文体がわかりやすく、大陸の騎馬民族国家との比較が面白いので、今読んでも全く違和感がありません。

その中で、姉妹婚制、レビラト婚制について書かれているのが目を引きました。姉妹が同時に嫁入りする史実は知ってはいたものの、改めて書かれているのを見ると、本当に多いと思いました。レビラト婚については、小林惠子先生も毎度書かれていることですが。

姉妹婚ですぐ思い浮かんだのが、ブータン前国王は一人息子だったせいか、四人姉妹を皇后として同時に娶られたことです。

また、天智天皇が四人もの皇女を大海人皇子に与えているのみならず、妹の額田姫王も大海人皇子に与えているのです。更に、額田姫王の同母姉の鏡姫王も大海人皇子の子を産んでいます。天智天皇と鏡、額田姫王姉妹は異母兄弟です。蘇我氏藤原氏など豪族も、複数の娘を天皇後宮に出しています。

wikiのレビラト婚には、徳川家、島津家、小笠原家、鍋島家、九鬼家などにおいても、嫁いできた正室が、夫の死後に弟に嫁いだ例が挙げられています。武家って騎馬民族と似ているところがありますね。

ja.wikipedia.org

 

p247 姉妹婚制は、天皇家の結婚でとくに顕著に見られる現象である。史実としては、反正、允恭、安閑の諸天皇が姉妹を同時に后妃として娶っており、欽明は蘇我稲目の娘、堅塩媛と小姉君を妃として娶っている。神話では、海神の娘、豊玉姫と妹玉依姫の話が有名であり、継承では、景行天皇に召された弟媛と姉の八坂入媛の話、垂仁天皇の皇后日葉酢媛とその四人姉妹の入内の話などがある。

姉妹婚は、大陸の騎馬民族社会では古くから行われた結婚の1形式で、匈奴単于が王女二人を后妃にした他、契丹でも行われていた。蒙古チンギス・ハーンも「一人の男子にして、同時あるいは順次に二人の姉妹を妻として持ちうる」というルブルクの報告がある。

 

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「スキタイと匈奴 遊牧の文明」林 俊雄著

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腰につけたベルト状の飾り

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他には、キルギスに残る突厥族の石人や立石は、可汗が亡くなった時には、倒した敵の数だけバルバルと呼ばれる立石を立てたものだという指摘。敵将も墓に立てたと。日本でも埴輪になる以前は実際に殉死させる人々を古墳の周りに立てたのだと。匈奴突厥の風習、衣類、冠、馬具の装飾、冠婚葬祭が似ているという比較が興味深いです。キルギスの草原に残る石人たちは、片手にワイングラスを持ち、ユーモラスな顔をしたものが多いのに、殉死の象徴である場合もあった、という悲しい背景があったのですね。

 

p29 スキタイ王の支配権がいかに偉大で、その一族がいかに巨万の富財を擁していたかは、埋葬に関するヘロドトスの所伝や、彼らの陵墓の実際に徴して最もよくうかがわれる。ヘロドトスに寄れば、スキタイ王が亡くなると、その奥津城の地ゲロス人の土地に方形の大穴を掘り、埋葬の用意を整えて置いて、王の屍体の腹をさいて綺麗にし、香料や生姜の根やパセリの種子などをいっぱいつめたうえ、元通りに縫い合わせ、屍体全体を蠟でおおう。それから遺骸を車に乗せて、支配下の異部族の元へ搬入する。屍体を迎えた者たちは、王族スキタイと同じ葬礼を行う。彼らは自分たちの耳を少しそぎ、頭髪を切り落として坊主頭にし、腕一面に切り傷をこしらえ、額と鼻に裂傷を与え、左手には矢を貫くのである。

 

 p30 スキタイ王の葬送

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 p31

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p33 軍神アレスに対してだけは、各地区ごとに祭場を設けていた。それは薪の束を185.2メートルの3倍である3スタディオン四方の広さに積み重ね、その頂上の方形の平らな場所に、アレスの神体である一振りの鉄の古刀を立てたもので、毎年この短剣に牛馬を捧げる他、敵の捕虜100人につき一人の割合で殺して、生贄に供えたという。

 

p34 スキタイには、シャマンのような占卜者が多くいたようで、柳枝の大束を持っていて、それを地面へ広げて、各枝条を1本ずつ散乱させて占い、占いのお告げを告げながら、それらの柳枝をまたもや1本ずつ集めて束にしたという。筮卜を思い起こさせるものがある。

 

p46 匈奴単于は天によってその資格が与えられた特別な人格、神格の持ち主として意識された。単于の完称は、タングリコト単于といい、天の子の大いなる者の意味で、昌頓単于が漢の文帝に送った書簡には、自分のことを「天の立つるところの匈奴単于」とか「天地生むところ、日月おくところの匈奴単于」と称している。単于の位は、男系子孫のみ継承される。

 

p231 

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p232

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小林惠子先生も、江上波夫先生の説をお手本にしてきたというような記述がありましたが、同じ道を違うアプローチでなさっている感じです。

 

「スキタイと匈奴 遊牧の文明」林 俊雄著

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図説中国文明 創元社  匈奴は星に対する信仰があり、日本もそうですね。

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「スキタイと匈奴 遊牧の文明」林 俊雄著

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南シベリア アルタイのパジリク古墳出土の馬飾りについての論文と写真も興味深いです。

紀元前7世紀における西アジアの馬面  巽 善信

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jorient1962/38/2/38_2_38/_pdf

 

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パジリク古墳出土 馬頭飾

 

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スキタイの黄金装飾

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 ロシア ホフラチ古墳 一世紀

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茨城県 三味塚古墳  馬がぐるりと冠の上に並び、丸い歩揺も。

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 奈良 藤ノ木古墳   小鳥がたくさん、丸い歩揺も付いています。これは、アフガニスタンのティリア・テペ古墳出土の冠と大変よく似ています。

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モンゴル史

昔買った雑誌です。モンゴル史の一面が美術品を通して顔を覗かせます。南ロシア、モンゴル、トルコのあたりを遊牧騎馬民族が入れ替わり立ち代り覇権を争ったのですね。

 

イルハンの支配者の前を走っている特使は、手に赤いPIAZIピアジを持っています。

ピアジとは通行手形のようです。

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13世紀 モンゴル帝国中を通ることができた純銀製のパスポート(ピアジ)

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バイカル湖近く 匈奴のノイン・ウラ遺跡から

棺にかけられたウール絹の布に鹿や4枚の羽を持つ獣が刺繍されている。

左下の動物は、野羊のブロンズベル 5~6世紀南シベリア出土

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ビルゲ・カガン(可汗)の冠と、ビルゲ可汗の廟から見つかった、天国へ魂を運ぶため羽を彫刻してある銀製鹿。

wikiから 毘伽可汗683年 - 734年)は、東突厥第二可汗国期の可汗阿史那骨咄禄の長子。姓は阿史那氏、名は默棘連(ぼくきょくれん)という。可汗号である毘伽可汗はビルゲ・カガン古テュルク語: Old Turkic letter N1.svgOld Turkic letter G1.svgOld turkic letter Q.png Old Turkic letter A.svgOld Turkic letter G2.svgOld Turkic letter L2.svgOld Turkic letter I.svgOld Turkic letter B2.svg - Bilgä Qaγan、トルコ語: Bilge Kağan

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草原で見つかったキュル・テギンの大理石の頭 A.D.750 冠に鳥が彫刻してある

wikiから 毘伽可汗の弟 闕特勤684年 - 732年)は、東突厥第二可汗国の左賢王阿史那骨咄禄の子で、毘伽可汗の弟。『突厥碑文』にある「キュル・テギン」(古テュルク語: Old Turkic letter N2.svgOld Turkic letter G2.svgOld Turkic letter I.svgOld Turkic letter T2.svgOld Turkic letter L2.svgOld Turkic letter U.svgOld Turkic letter K.svgトルコ語: Kül Tigin)の漢字転写とされる

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ja.wikipedia.org

 

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 1206年ジンギスカーンは大カーンに選ばれ、モンゴル帝国を建てる。1235年息子オゴダイカラコルムを首都とする。その後7年の間、モンゴル軍はロシアと東ヨーロッパの支配者を打ち負かした。

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 wikiから

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15世紀 モンゴルの貴人 日本の絵とよく似ています。

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wikiより

ガザン・ハンペルシア語:غازان خان Ghāzān khān, 1271年11月4日 - 1304年5月17日)は、イルハン朝の第7代君主。第4代君主アルグンの長子で、第8代君主オルジェイトゥの兄に当たる(在位:1295年11月3日 - 1304年5月17日)。『元史』などにおける漢字表記は合贊

1291年に父アルグンが没した後、父の弟であるガイハトゥが後を継いで君主となったが、失政を続けた結果、1295年に従兄弟に当たるバイドゥに殺害された。ガザンはその半年後、バイドゥに対して反乱を起こして彼を滅ぼし、イルハン朝の第7代君主として即位することになったのである。

ガザンは、本来父アルグンの影響で仏教を信仰していた事が知られている。フレグ家がイスラームに改宗する以前はチベット仏教などに多大な寄進を行っていたことが判明しており、ガザンの封領ホラーサーン地方のハブーシャーンにおいて数座の仏寺が建立され、また首都タブリーズにおいてはフレグ時代に遡る仏寺の遺跡が二ケ所現存している。ガザンのイスラームへの改宗はバイドゥとの王位継承戦において、先のノウルーズが苦境に陥っていたガザンに、ガザン自身がイスラームに改宗する事によって全イスラーム教徒の支持を受けられることが出来ると力説した話が伝えられている。

これに伴い即位初年の勅令(ヤルリク)はイスラーム以外の主要建造物、すなわち仏教寺院(ブトハーネ、マウブード)、ゾロアスター教寺院(アーテシュキャデ)の破壊命令が発せられ、キリスト教会堂(キャリーサー)、ユダヤ教会堂(キャニーセ)もまたそれに続いて破壊を蒙ったという。既にテグデル・ハンの時代にテグデル自身も含めモンゴル軍民のイスラーム化の徴候が出始めていたが、このガザンの治世によって、イルハン朝は既存のモンゴルの国家体制や慣習などを維持しながらも国家規模のイスラーム化を推進していくこととなる。

さらに1298年、改宗したユダヤ教徒の一族に属するラシードゥッディーン宰相にして財政改革やイルハン朝の支配体制強化に努めた。また、ガザンは1300年、ラシードにガザンの治世に至るチンギス・カン家諸王家と、フレグの遠征以来イルハン朝領内に展開していたのテュルク・モンゴル系諸部族の歴史をまとめた「モンゴル史」の編纂を命じた。これはガザン没後の1310年に次代のオルジェイトゥの命で再編集・完成して14世紀以降、イラン・中央アジアで最大規模の歴史書である『集史』となり、その後のオスマン朝を含むこれらの地域の歴史叙述に決定的な影響を及ぼした。これらの施政によって政治的・文化的にイルハン朝は大いに発展した。

1304年5月17日、34歳で病死した。遺骸はタブリーズへ運ばれ、生前タブリーズ郊外のシャンブの地に建設したガーザーニーヤという名のワクフ複合施設の廟墓に埋葬された。

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ガザンの宮廷  wikiより

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ガザン・カーン

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ガザンのディナール銀貨 花の意匠は日本と同じ。右上、蛇に見えますね。

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www.y-history.net

 

14世紀 イルハン王朝の即位式

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日本の絵にそっくりです。 トプカピ宮殿蔵

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sekainorekisi.com

イスラムのタイル

立体的に盛り上がったタイル、美しいです。

 

Kashan ceramic tile, 1240-1300

トルコ中央部のカザンで大理石に彫刻されたもの

ベルリン博物館蔵

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カジャール 19世紀

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カジャール 20世紀

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INAX陶器博物館

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INAX陶器博物館

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もうひとりの写楽 海を渡ってきた李朝絵師

李 寧煕 河出書房新社 1998

 

もう22年も前の本になります。この著者の「枕詞の秘密」などは出版された当時に読みましたが、この本のことは全く気がつかず、今回初めて読みました。単に画風で写楽と金弘道が似ているというだけでなく、暗号文を解いてこの結論になっているところが素晴らしいです。

写楽と言われている人物は、実は正祖王(在位1776-1800年)に寵愛された宮廷画家の金 弘道(ギム ホンド)である。彼は王命で、火薬や火兵器の製造法、設備状況などを極秘裏に偵察、スケッチしていた李朝の非公式特使であったというのが主旨。家斉は恒例の朝鮮通信使の来日を渋っており、前回から30年も空白があいて李朝は焦燥がつのり、腹心の金 弘道を派遣した。幕府側の当事者は、金 弘道が何者かわかっており、丁重に保護案内もしていて、任務後は無事江戸湾の鉄砲州から朝鮮に送り返している。日本での生活費や活動費のために、せっせと金弘道は絵を描いては売ったり、世話になった寺や人に贈呈していた。写楽に浮世絵を描かせたのは市川鰕蔵(えびぞう)。弟子がてら金弘道の世話を十返舎一九がして、「初登山手習万帖」の中に暗号で、実は写楽は金弘道で、何をしに来ていたかを書いている、という謎解きが大変刺激的です。十返舎一九の父も1764年11回目に来日した朝鮮通信使の通訳、李命和(イ・ミョンワ)なのだそうです。母は大阪に住んでいた、下働きのおなべ。十返しはとうがえしとも読めて、父帰し(とうがえし)と重なる。父は帰国してしまった。二人とも、バイリンガルだったのですね。十返舎一九もハーフだったとは。正祖王は聡明な王であったがゆえに若くして暗殺されてしまう。晩年の金弘道は、暗殺や処刑こそされなかったものの、極貧の生活で、1度息子の教育費のために再度来日し、絵を描いていたらしいというエピソードもうら悲しい。

ちなみに、古代からの間諜と同様、金弘道も僧の身なりで行動していたとのこと。非常に面白い本です。しかし、幕府が朝鮮王の間諜であること、しかも兵器の視察スケッチの目的での来日とわかっていながら、日本側が協力した理由は何でしょうか?

対馬藩主と言えば宗武志氏が思い出されます。なぜ朝鮮王朝の公主と結婚されたのでしょうね。江戸時代も、もしかして、朝鮮王家と対馬藩主の間に婚姻関係があったのでしょうか?それが幕府が金弘道を援助した理由ならば、わかる気がします。大陸から攻撃を受けた時のために、朝鮮にも武力は必要ということで、日本の兵器製造場所を案内したのではないでしょうか?

どうやら、対馬藩は徳川家の委託を受けて、朝鮮と貿易をしていたらしいです。その上がりの一部は、徳川家へ納めたのでは?

マヨの本音というブログに、以下の記述がありました。銀の道って初めて耳にしました。ここでも対馬が登場しますね。

「韃靼の馬」(辻原 豊著)

対馬藩で朝鮮との交易をしていた。「銀の道」という極秘の街道が韓半島にあり、釜山から漢城へ普通であるなら十七日かかるところをたった五日間でたどり着けるのだという。

倭館を通して朝鮮から輸入される商品の八割は白糸と絹織物で、ほとんどが京都へ向かう。・・・取引はすべて丁銀で行なわれ、・・・銀は京都・三条河原町対馬藩邸で調達され、箱詰めされた丁銀は伏見に至り、淀川を下って、大坂、瀬戸内海を経て対馬へ。荷改めの後、お銀船で倭館まで運ばれた。朝鮮政府は、日本から支払われた銀を北京まで運んで、また商品を購入する。こうして京都と北京は「銀の道」で結ばれていた。」

 

この書き下し文を吟味して、それが韓国語でも読めるとわかった過程を書かれています。

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p43 対馬藩から朝鮮へ送る貿易船は年間20叟。ほかに対馬藩主が送る特送船もあり、年間40から80叟が往来していた。対馬からは銀、銅、胡椒、蘇木などを輸出し、朝鮮からは米、人参、木綿、布類、白糸、虎皮、虎油などを輸入していた。1789年金弘道は単身対馬に行き秘密裡に対馬の地図を描いている。王命によるものであった。対馬を往来するのは当時の朝鮮人にとって案外簡単だったのではないか。

P51 金弘道は上陸地を四国の丸亀に決め、金比羅参りの人波に紛れ、象頭山松尾寺金光院に入り込む。李朝朝廷の誰かが幕府側の誰かと折衝した結果と思われる。幕府側が高松藩の松平讃岐守に手を貸せと声をかけた。讃岐守は、金光院別当に頼みを入れる。高僧が金弘道をあずかり、旅行用身分証明書の往来切ってや関所手形などを作ってやる。朝鮮国延豊県藍金弘道の名前で手形を発行できないので、適当な日本人名として斎藤藤十郎にしたのではないか。

p52 案内者やお供まで連れて全国を歩くとすれば相当な懐金が必要で、お金儲けのための画号を作ることになる。東洲斎写楽がそれである。

p62 松尾寺の釈迦涅槃図、縦3メートル20センチ、横7メートル56センチの3枚にわたる大作は写楽作では。

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金弘道と写楽のよく似た点は、釘のような太い筆のあとにさっと描き下ろす描き方が特徴だそうです。下の二枚を見ると、着物にそのような筆の跡がわかります。

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スリランカの壁画

ティワンカ・ピリマゲ寺院

ポロンナルワ遺跡の最北。13世紀パラークラマ・バーフ3世王が再建

写真:遺跡猫様

ブリハディーシュワラ寺院の壁画と似ていると思います。気品がありますね。王族の女性たちでしょうか?神に仕える女性たち?柔和な微笑みが美しいです。寺院も美しいので、リンクからご覧ください。

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シギリヤ宮殿跡

スリランカの5世紀後半カーシャパ王が14年かけて建てた城の跡。南国的。高貴な身分は、胸を隠さず、侍女の方は薄物を1枚着て隠すのだそうです。妃の黄金の冠や大きなエメラルとのペンダントがすごい。侍女も被っていますね。

写真:遺跡猫様

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