好きなもの、心惹かれるもの

本、音楽、陶器、織物、手芸品をご紹介します。

口伝の歴史

第74世竹内宿禰、竹内睦泰氏のブログとyoutubeを初めて見たところです。真言宗の僧侶でもありながら、古神道の神主?でいらっしゃるようです。後醍醐天皇の子孫でもあるとか。桃太郎、浦島太郎の昔話が、実は歴史だったと話されていますが、同様のことは、カチカチ山と猿蟹合戦もそうだと読んだことがあります。確かカチカチ山は、高句麗との戦争を比喩したものだったとの記憶が。タヌキ、おじいさん、おばあさんは、もちろん人を喩えてのことです。背中に火をつけた、のは山に火を放った故事、ともかく負けた方が語り継いだ、戦争の歴史だったとか。

持統天皇天智天皇天武天皇に関する竹内氏のコメントは、小林惠子先生と全く違います。竹内氏は、天皇家末裔として口伝で聞いているという強み、小林先生は三笠宮殿下から異論がなかったという強み、があります。

 

竹内宿禰の子孫
波多氏、巨勢氏、蘇我氏平群氏、紀氏、葛城氏

秦氏のことでしょうか。有名な豪族がずらり。皆一族だったんですね。臣、と言っても実際は天皇の親戚ですよね。統治王と祭祀王と権力を二つに分ける、双子体制を取るのが遊牧騎馬民族の特徴、と栗原慎一郎氏が書かれていました。

ameblo.jp

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幾つか聞いたyoutubeの内容をメモしました。口伝で聞いているというお話が面白いです。重要な話は書いたりしない、とのこと。ごもっともです。倭国大乱ってどんな戦争だったのかと思っていましたが、豊作のコメの取り合いだったなんて。

 

平城京 東大寺が1番大きく御所よりでかい。僧侶がはびこってきた。平安京に移る時に、最初は僧侶は入れない命令だった。長岡京は洪水と早良親王の怨霊がいるため引っ越した桓武天皇平安京を守るために最澄比叡山滋賀県に作らせた。
 
綏靖天皇の時に兄弟で殺し合い
彦八井命、神八井耳命、神沼河耳命(正式な皇子3人)VS 当芸志美美命 腹違いの兄、神武天皇の摂政
勝った方の正統な皇子たちが決めたこと。
神沼河耳命(綏靖天皇)=統治王(政体)
神八井耳命=祭祀王(国体)
 
祭祀王の家柄からは多氏が出る 始祖 神八井耳命神武天皇の皇子)
ここから太安万侶(おおのやすまろ)が出る。43代元明天皇から命じられて稗田阿礼が暗誦する「帝紀」「旧辞」を筆録して古事記を編纂した。
 
第3代安寧天皇(統治王) 岐須美美命=研耳命(祭祀王)
第4代懿徳天皇(統治王)即位124年 息石耳命(祭祀王)
農業事業を進めたら水田耕作がうまく行って、コメを保存できるようになり、奪い合って戦争になった。
倭国大乱ー瀬戸内の戦い(150年ー200年)
第5代孝昭天皇(統治王) 多芸志比古命(祭祀王)
第6代 孝安天皇
第8代孝元天皇(統治王) 夜麻登登母母曽毘売命(祭祀王)
瀬戸内地方へ引く 吉備地方に高地性集落を作る。開化天皇の時に勝てる見込みがついた。
キビツヒコが派遣される=若日子建吉備津日子命=桃太郎 吉備を統一して統治した。
 
*京都、丹波の出雲神社である、浦嶋神社(宇良神社)京都府与謝郡伊根町 
この神社の巫女(亀)が男性達に乱暴されていたのを浦島太郎が助け、結婚することになった。披露宴で太郎が楽しんでいる間に、復讐のため巫女の村人達が、レイプした男性達を皆殺しにした。
 
武内宿禰成務天皇は、双子だった。同じ日に生まれた記録がある。
 
蘇我馬子石舞台古墳は、天皇陵級のサイズである。
 
尾張守・平群安万侶(竹内宿禰)は風土記編纂に関わった。
 
*ヤマト族は、諏訪の出雲族治外法権を与えていた。諏訪は鉄の場で古代の製鉄技術があった。建御名方神は、土着の洩矢神を制し、祭神となった。堪え神事では、鉄鐸を使用する。
 
*信長は、福井の織田明神劔神社)の社家の家系。信長は安土城の地下にしめ縄を巻いた大きな石を埋めて、これを拝めと言った=古神道
信長は平氏藤原氏を(織田神社)を名乗っていたが、本当は忌部氏である。忌部は阿波忌部、讃岐忌部、紀伊、伊勢、筑紫忌部、出雲の玉作氏が配下にいる。
 
 

古代の水上交通

ベニスのホテルに泊まった時に、ボートでホテルの入り口まで案内されたのですが、古代日本は、現在より7mほど水面が高かったらしいので、水上から船で神社に入った地域があるようです。鹿島神宮香取神宮も、香取の海があったのでそうだと思います。関西にも海から参道ができている神社があったと思います。

この地図の地名、馬渡とか牛掘という動物がついた地名、麻生、羽生、笹川という現代の有名人の人名、当間という当麻寺を思わせる地名があって面白いです。

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唐草模様は蛇を意匠化したものでは?

А.Ю. Алексеев

Золото скифских царей в собрании Эрмитажа.

A.Yu. Alekseev 
”Gold of the Scythian kings in the collection of the Hermitage”
 

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この記事ですが、アレクセーエフ氏の「スキタイ王たちの黄金」という本から紹介しているようです。写真を見ているだけでも興味深いです。実に高度な芸術品。この写真を見ていくと、馬のハーネス装飾という縦長の飾りが出てきます。紀元前4世紀のボルシャヤ・ツィンバルカ古墳で発掘されたものだそうです。女神の下に、二匹の蛇が巻き付いています。蛇がハート型に絡みついて、ハート型のデザインは古代からあることがわかります。アテネの博物館でもハート形のアクセサリーを見ました。もちろん、我が国縄文時代には顔がハート型の縄文のヴィーナスもあります。
 
このハーネスの女神と蛇の意匠は、なんとなくクレタ島で見つかった女神が両手に蛇を握っている像と似ていると思います。拡大してみると、女神が片手ずつ二匹の蛇を掴んでいるように見えます。
それとこれは唐草模様でもありますね。唐草模様といえば、仏像の光背に透かしになっているものや法隆寺の装飾のあちらこちらにあります。例えば、法隆寺救世観音像の冠の唐草模様が思い浮かびます。起源は蛇だったのではないでしょうか。このハーネスの模様、蛇の顔があるものとないものがありますが、蛇をデザイン化して連続模様になって、唐草模様として完成したのだと私は感じます。唐草模様を見て、蛇だ、と思う現代人はほぼ皆無と思いますが、昔の人々は、そういう意識で唐草模様を形取って装飾していたのでは。
それにしても、美しいと思っていた唐草模様の全てに蛇の頭がついているのが省略されているだけだとすれば、あの唐草のデザインに蛇の頭がついている様子を思い浮かべて見てください。メデューサそのものですね!そして、メデューサって、実は侍女ではなく侍従をたくさん侍らせていた女帝だったのかも???蛇=男性ならば。
 

Bolshaya Tsimbalka mound

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ギリシャ クレタ島 紀元前1500年

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同記事に、この壷があります。上の方は、二段に狩猟シーンが彫刻されていますが、正面の唐草模様は、やはり元は蛇の意匠を表しているのかもしれないと思いました。下の方に二頭の獅子が立体的に首が付いています。二羽の鳥は、なんの鳥でしょうか。獅子の間に見えるのは、鷹なのか、なんでしょうか。鳥の下の方には、リュトンのようなものが見えます。何を暗示した図柄なのか、それを説明しているものが見つかりません。正倉院御物の宝物とも共通点がありそうです。

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kronk.spb.ru

ウクライナの初期鉄器時代-世界の遊牧民

今月は写真を投稿する利用量がいっぱいなので、10月始めにクルガンをロシア語で検索して出てきた写真を載せたいと思っています。現地語で検索しさえすれば、山のように写真が出てくることがわかりました。この記事は英語ですし、地図やイラストが多くてわかりやすいと思います。衣装の絵が見ていて楽しいです。

 

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    スキタイの女王

 

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            スキタイ王族 

geomap.com.ua

 

マルガレーテ女王と考古学

マルガレーテ女王は、英国貴族の祖母の愛称を受け継いでデイジーというのだそうです。スウェーデンのグスタフ6世は母方祖父にあたるわけですが、この方に似ていらっしゃるようです。

wikiから

「グスタフ6世の最初の妻は、イギリス王族サクス=コバーグ=ゴータ家出身)であるコノート公アーサーヴィクトリア女王の三男)の娘マルガレータである。2人の間にはグスタフ・アドルフをはじめ5児が生まれるが、1920年にマルガレータは急死した。1923年、ミルフォード=ヘイヴン侯爵ルイス・アレグザンダー・マウントバッテンの娘で、ルイス・フランシス・マウントバッテン卿の姉並びにエディンバラ公フィリップの叔母に当たるルイーズと再婚する。

グスタフ6世は植物学および考古学の専門家としても知られ、学者国王として君臨した。考古学分野においては、中華文化をはじめとする東洋の文化に対する関心が深かったと言われている。

王太子時代の1926年には日本を訪問、東京、京都、奈良などで寺社、遺跡、博物館などを精力的に視察・研究した。この間の業績として、唐三彩説が有力だった正倉院の三彩陶器を研究し、日本製(奈良三彩)であるという考えを公表した。さらに、日本統治時代の朝鮮に渡って慶州を訪問し、瑞鳳塚における発掘作業を視察した。」

 
夫妻での訪日時の様子
 

 

 

20代独身の間に、空軍に所属したり、世界中を旅行して回られたのでした。発掘現場を訪れて古代のミイラを見たり、年配になられてもロンドンの公園に隠れている古代のヒエログリフをご覧になる。

www.berlingske.dk

マルガレーテ女王は考古学に長年興味を持っており、世界中の発掘調査を訪れてきました。祖父のグスタフ・アドルフ国王と1957年1月ローマでの考古学発掘現場での写真。

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Photo: ALGOT´S PRESS PHOTO

1962年ボーンホルム島のペダースカーにあるスルセゴールの鉄器時代の墓の発掘現場で、考古学の学生であるスヴェンドクランプとマルグレーテ王女。(ミイラと一緒に写真に写られています。)

1962年マルグレーテ王女はエジプトとヌビアの考古学的発掘調査を訪問し、エジプトとスーダンの国境にある旧ヌビア地域のワディハルファの発掘調査をしました。 1964年ボーンホルム島のペダースカーにある鉄器時代の発掘調査に戻りました。

f:id:MeinFavorit:20200924125204p:plainPhoto: Allan Moe / NF

マルグレーテ王女はメキシコのオアハカとモンテアルバンの発掘調査を訪れました。 マルグレーテ女王とヘンリク王配は、ブルガリアのスタロセルの村で地元の考古学者たちと乾杯し、2,500年前の墓を訪れました。

 国立博物館の責任者であるピーター・ヴァン・ピーターセンは、ボーンホルムのリスペヤル発掘で発見された珍しい黄金を女王に見せています。両殿下は、エストニアのクレサーレにある歴史的な遺跡を訪れます。

 

jyllands-posten.dk

f:id:MeinFavorit:20200924125846p:plain女王の考古学への関心は、この2005年の写真からはっきりわかります。ここではボーンホルムのペトログラフを研究しています。写真は本:「マルガレーテ女王と考古学」より。

女王は生涯を通じて考古学に情熱を注いできましたが、発見する方法も新しくて創造的であったことを明らかにしています。「マルガレーテ女王と考古学」の中で、ヨルゲン・アーレフェルトローラヴィーク伯爵は、1960年代に彼と王女が当局からの許可なしに、ロンドン、ハイドパークの進入禁止の土地で古いヒエログラフを探しに出かけたことを書いています。

国立博物館は、公園のフェンスの後ろにある何世紀も前の、チョークパイプのいくつかを手に入れることに興味を持っていました。 伯爵がこの仕事を引き受け、当時英国に留学していた若いマルグレーテ王女から助けを受けました。彼と王女が国立博物館の保存修復者の助けを借りて、ハイドパーク内にたくさんのチョークパイプのある場所を見つけたのです。マルグレーテ王女は、フェンスを越えてローズベッドに連れて行くことができる独創的な解決策をすばやく見つけました。

王女様はメールもモバイルも持っていません。彼女は断固としてヘッドドレスをフェンスの向こうへ投げて言いました。「ヨルゲン、私の帽子を取ってきて下さらないかしら?」

これは珍しいチョークパイプのいくつかを国立博物館に確保する稀な機会でした。 ヨルゲン・アーレフェルト=ローヴィグは、物語が説明どおりに展開されたこと、英国当局がチョークパイプの強盗について知らされなかったことを確認しましたが、この方法が違法であったか、収集行為が不十分であることを否定しました。 この地域にはまったくルールはありませんでした。あなたはそれを行うことができます。公園のベッドには大量のチョークパイプが自由に横たわっていました。

多くのチョークパイプの説明は、おそらく、ハイドパークの一部がおそらく遊園地だった時期にさかのぼります。ほとんど違法ではないパイプはおそらく数百年前のものであり、ヨーロッパで最も古いものもあるが、実際の文化的価値を表すものではない、と何人かの専門家がBerlingske Tidendeに述べています。デンマーク博物館機構の責任者であるニルスM.ジェンセンは、「この事件はマーグレーテ女王の考古学への情熱の表れであると信じています。 面白いものを見つけ、それを持ち帰って、自国の美術館に提出するのは、発見者の喜びです」と彼は語りました。

 

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ベルギー王室と皇室の写真

以下のフランス語ブログに、ベルギーを訪問した日本の要人たちの写真がありました。

royalementblog.blogspot.com

江戸時代から始まります。徳川家、藤原家は似たような立ち位置でしょうか?

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伏見宮博恭王  ドイツ海軍大学校卒業 海軍のトップだった方のようです。

 

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東伏見依仁親王親王妃

フランス・ブレスト海軍兵学校卒業とwikiで知りました。従兄弟に当たられるのだと思いますが、双子のようによく似た写真です。

 

昭和天皇もご訪問。まだお若いですね。

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高松宮両殿下の欧州ご訪問は、確か21億円ほどの費用で半分を徳川家が負担したと読んだ記憶が。エジプトまで足を伸ばされた船旅だったと思います。

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1953年19歳の明仁皇太子もベルギーご訪問。

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1971年昭和天皇香淳皇后ベルギーご訪問

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1985年最晩年にボードワン国王とフィリップ王子が昭和天皇に会われていました。

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2003年ベルギーをご訪問された秋篠宮両殿下に挨拶されるローラン王子

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カタカムナ

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カタカムナという神代文字は、この吉野信子さんと丸山修寛医師が多く本を出版されていますし、youtubeにも出ていらっしゃいます。上の写真の吉野信子という漢字の下に、カタカムナで名前も書かれています。カタカムナも、それ以外の神代文字も、特別な家系にのみ伝わっていたもののようです。

 

以下二枚は、丸山医師の「クスリ絵カタカムナ」からのものです。1つ1つの図形がアイウエオを表していますが、このように渦になった形で歌を表すようです。とても宇宙的な文字だと思いました。一文字一文字が1枚ずつのカードに書かれたカルタのようなものも発売されています。

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