好きなもの、心惹かれるもの

本、音楽、陶器、織物、手芸品をご紹介します。

パジリク古墳再び

ペーズリー柄の起源は、紀元前いつだったかしら、パジリク古墳だったかな?と検索したら、以前パジリク古墳の絨毯などを取り上げた際には気がつかなかった面白い記事が出てきました。榊 龍昭氏の絨毯についての考察を纏めたものです。

tribe-log.com

榊氏の記事の中で紹介されているこのクルガンの図も大変わかりやすい綺麗なものですね。これが、先日発見された盾型銅鏡奈良市富雄の富雄丸山古墳の形とかなり似ていると思いました。

tacchan.hatenablog.com

そもそも、世界最古と言われるパジリク絨毯が、クルガンの中で、どのように発掘されたのかのこの絵図も、大変参考になりました。

榊氏の上記の記事の中でも面白いのが、

1921年から23年間だけの独立国であり、モンゴルと南シベリアの間に位置し、まさにパジリクやアルジャンなどの古代クルガン遺跡の真上にあった幻のトゥバ国です。遥か昔から、野生のトナカイを飼いならし、遊牧生活を営んできたであろう人々です。オーストリア人のメンヒェン=ヘルフェンによる奇書「トゥバ紀行」のなかにも、トナカイ飼育の発祥の起源として、パジリク周辺からバイカル湖に連なる、トゥバ人とツングース系の遊牧民が上げられており、西方に広がるチュルク語を話すトルコ系民族と南に位置するチベット系の入り混じった独特な文化が紹介されています。
この中で特に興味深かったのは、遊牧民であるトゥバ人が去勢を知らなかったということです。」

というところ。「トゥバ紀行」という本も読んでみたいですね。翻訳されているんでしょうか。榊氏の拡大写真により、トナカイの内臓まで表現していたことを知りました。すごいですね。

tribe-log.com

榊氏のもう1つの記事は、更に掘り下げて、興味深いことを教えていただいています。

「この絨毯の面白さのひとつは文様の世界観にあると言えます。
絨毯を取り囲むのは28頭の馬に乗った人のモチーフで、その内側には立派な角を持つトナカイが24頭存在し、中央部分には繰り返しの花弁のようなモチーフが表現されています。
発見者であるロシア人考古学者のルデンコを始め、発掘当時は同時代のアケメネス朝ペルシアの伝統にそったものと考えられていました。
確かに中央部分のモチーフはニネヴェア遺跡のレリーフに近く、周りの馬に乗る人々もペルセポリスのアパナダ遺跡(公式会見の間)のダァリウス王への貢物を届ける行列に似ています。

立派な角のあるトナカイのモチーフは周辺の色々な発掘物でも見られます。
例えばヒッタイトやサマルタイなど、多くの遺跡のレリーフや金属性の呪具のようなものの中に登場します。
トナカイはシベリアのシャーマンの被る帽子にもこの角は見られ、この世とあの世を繋ぐ象徴であったかもしれません。
中央部分の正方形繰り返しモチーフは、現在のイラクにあるメソポタミア時代の遺跡の石のレリーフの似ていると言われています。」

確かに激似ですね。このトナカイの絨毯は、どこに敷いてあったのでしょう。

「私も以前、西インドのマハラジャ出身のディーラーから大型のチェスボード模様の更紗を見せてもらったことがありますが、マハラジャが郊外にキャンプに行く際にもって行きテントの中で遊ぶためのゲームボードデザインが表現されているということでした。

発見者であるルデンコを始め、発掘当時は同時代のアケメネス朝ペルシアやメソポタミア時代に遺跡との類似性から当時の伝統にそったものと考えられていました。確かに中央部分の正方形モチーフはイラクの石のレリーフに近く、馬に乗る人々もダァリウス王への貢物を届けるアルメニア人の行列に最も似ています。」

 

榊氏は、染料についても具体的に植物の写真で、絨毯の産地をイランではなく、中央アジアと推定されています。

「また、部族絨毯研究家のブライアン・マクドナルド氏はこの絨毯のデザインはアケメネス朝の影響を受けたことは疑いないが、当時に中央アジアには高度な絨毯を織る工房があり、この絨毯を彩る紫がかった赤の色が茜ではなく、虫由来によるものであることがその証拠であるとしています。
また全体に使われている青も代表的なブルーの染料であるインディゴ(藍)ではなくウォード(大青)という植物だということです。
ウォード(大青)はイラン高原にはあまり無く、より北方の草原地帯が産地ということもわかってきています。
確かな情報ではないのですが、アレクサンダーの末裔が住むともいわれる、アフガニスタンパキスタン国境のコヒスタン地方の山岳部族達が、つい最近までケルメス染(虫由来)が見られたという話を聞きました。「絨毯ベルト」ともいわれる中央ユーラシアの草原地帯は、拠点を移動しながら文明を築いてきた、多部族・多文化・多言語を持つ騎馬民族によって形成されてきたと言えるのではないでしょうか。」