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「寺社勢力の中世  無縁・有縁・移民」

伊藤正敏著 筑摩新書 2008

 

目から鱗が何枚もぽろぽろ落ちる本です。

「寺そのものが、都市なのだ」そうです。例えば高野山国、比叡山国、東大寺国、園城寺国、のような感じで、大寺院は所領の中に工場も市場も住宅も網羅した国だったのですね。

 

特に遼へ武器売却を根来寺の僧がしていたことが驚きです。そこにソグド商人が介在しないでダイレクトに?イエズス会根来寺の比較では、まだ規模はプチサイズですが。寺が高利貸しをしていたエピソードとか、中世500年が生き生きとして見えてきます。

 

p70 叡山は皇室の駆け込み寺の観を呈しているが、南北朝いずれにも偏っていない。後醍醐天皇が1336年の正月と五月の二度も叡山へ逃れていることが目を引くだろう。

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p82 日本の古代寺院は、宮殿でも滅多に使われない瓦で屋根を葺き、柱や壁に極彩色を施した豪勢な建築物である。飛鳥の川原寺は、当時宝石として使われた大理石を礎石として敷き並べている。寺院は間違いなく当時最高の、皇居以上の豪華建築である。

 

p91 大寺社が全て都市ということになれば、平安末期の近畿地方南都北嶺他、東寺、醍醐寺石清水八幡宮四天王寺など、無数の都市に満ちた都市社会だということになる。

 

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p95 根来寺は北に和泉山脈、南に前山、東も山地である。さらに砦や城壁となる土塁を築造した城廓都市である。西だけが開けており、大門の西に南北に伸びる根来街道があり、北へ峠を越えると和泉国、南は紀ノ川である。紀ノ川からは、備前焼や中国陶磁器が運ばれた。根来寺境内には総数約三百の井戸などの生活施設を伴う子院あとが隙間なく密集している。発掘調査では、油屋と推定される埋甕施設を備えた子院跡、大人が2,3人隠れれられる巨大な甕、それを十個以上並べた遺構が多数ある。油屋、紺屋、酒屋のいずれかである。地図にある筒井坊、理性院などの子院名を刻印した漆の椀や、武具、鉄砲玉が出土している。根来寺境内は、その全域が、法体職人が集住する一大工業都市だったのだ。これは衝撃的な発見であった。

 

p103 興福寺より延暦寺へ 

早く対面して両門の雌雄を決しよう。兵は凶器であり、戦いは徳に逆らう行為である。俗人だって戦いは好まない。出家の身である我々はなおさらだ。(中略)貴山の祖師は、我が寺の祖師の孫弟子である。昔両寺は親しい友であった。だが近年は両寺の喧嘩が絶えない。貴寺と利害が対立する要求を実現するため訴えるがいつも朝廷の兵に止められる。謀反人になるのは嫌なので、その時は抵抗せずに解散している。みんな鬱憤がたまるばかりだ。

そこで我々は宇治の平等院に命じて、宇田川の橋を修理して渡りやすくし、道路を平らにして歩きやすくした。貴寺の軍が進軍しやすいようにである。本寺及び同志の奈良七大寺の戦備は整った。比叡山三塔の準備はいかが。汝らは一歩も北へ退くな。我らも決して南を振り向かぬ。この一戦の勝敗によって興福寺延暦寺の優劣を決めよう。決着までは互いに悪口を言わずフェアに行こう。待っているぞ。遅れるな。

承安三年十一月 1173年    興福寺大衆 

 

p112 1585年に秀吉が高野山に対し、寺僧らは仏教と無関係な武具・鉄砲製造を行っている。これは悪逆無道だから禁止する。という禁制を出した。
鉄砲の三大生産地は堺、近江国友、根来寺である。この前年の小牧・長久手の合戦に際し、徳川家康高野山に対し、味方に参じ鉄砲五百丁を持参すれば、恩賞として大和に二万石の土地を与えようと提案した。関ヶ原合戦の十六年前という時点で、家康が本気で天下を狙っていた証拠は、こういう文書によってのみ、わかるのだ。

 

p116 日本は鎌倉時代前期に、本格的な貨幣経済の時代に入る。それ以前は米が基本通貨であった。人々は平安時代末期まで代金を銭で受け取ることを嫌い、米、布、母牛、父馬(乳牛と種馬)などを取引の代物とした。銭を使う場合でも、銭だけで代を受け取ることはなく、半分は米などで受け取った。当時はまだ物々交換経済に近かったのだ。

銭だけを対価に決済する土地売買が始まったのは、鎌倉時代に入る直前であった。この貨幣経済への転換に際し、率先して銭貨を使用したのは日吉神人であった。マネーゲームなら銭の方が便利だ。母牛で借金を返されたら困惑するだけだろう。

 

p119 当時文物の輸入は民間貿易とともにますます盛んになり、もはや遣唐使の必要がなくなったというのが実際である。この貿易利権で一番潤ったのが太宰師であった。1093年、僧明範が遼(契丹)に武器を売却したとして逮捕され、後に太宰権師の藤原伊房の手先として、死の商人の役を勤めていたことが判明した。

 

p127 高野山の日本国総菩提所の大名墓地の背後には、五十万基と言われる無数の廃棄石仏がある。奥の院の発掘調査に寄れば、墓所を破壊してその上に墓所を作り、さらにまたその上に墓地を造成していたことが確認されている。破壊を行なったのは高野聖以外の何者でもない。

根来寺では、どぶの蓋として、墓石をいとも無造作に使っている。井戸を潰すための詰め物として石仏を四体使った遺構もみつかっている。約百体の石仏、葬られて10年も経っていない墓石を並べて、城の濠の中に壁を作って防御施設としたりしている。小浜城、和歌山城、二条城の石垣にも中世の石仏が使われている。越前首都一乗谷の寺跡では、幅50cmほどの溝の蓋石には、背面を削平した石仏が裏返しにして使われている。寺に入るとき、必ず石仏を足で踏みつけることになる。墓石をモノまたは利権としか見ない人間は、墓所の管理にあたる寺僧こそなりやすい。

 

p130 源平合戦のとき、平重衡は南都焼打を行った。寺社に放火したことで、重衡は清盛以上の極悪人と見なされ、悪の代名詞となり後世まで汚名を残した。ところが寺社同士の争いとなると焼き討ちなどはざらである。叡山は50回近く園城寺を焼き討ちし、園城寺も叡山を一回焼き払っている。1208年堂衆合戦中、一部の学侶が、後鳥羽院に抗議する意味で東塔に放火し、宝塔、灌頂院、真言院、根本中堂回廊、楼門、舞台(清水寺の舞台のオリジナル)が焼失した。

 

p138 江戸時代の高野山行人は、六人の組頭のうち二人が半年の任期で江戸に参勤交代する。高野山は十万石格の大名なのだ。学侶方行人方とは別に参勤交代をした。正月には江戸城に登城して、織田、松浦、伊東、津軽などの諸大名が集まる柳の間に詰める。井伊、会津松平に次技、阿部、稲葉より上格である。高野山領は周囲を紀州藩領に囲まれているが、その支配を受けず、独立して領内支配を行った。幕末の百姓一揆や地方騒動の際には、紀州藩兵を呼び入れて鎮圧してもらった。

 

伊藤先生のお顔が、私がイメージするソグド人です。 酔胡王の仮面のような。

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