4年にわたった契丹と後晋の戦争は契丹の勝利となり、契丹皇帝太宗が開封に入城したときの様子が書かれています。甲冑姿でなく、中原皇帝の正装に身を包み、正殿である祟元殿に君臨し、オーケストラの演奏の中、厳かに登極した。後晋の官僚は漢服、契丹官僚は胡服だった。
この死装束、見たことがあります。繊細なレース編みのようなもの。
別の一編。「遼帝国の出版文化と東アジア」磯部 彰著
高麗王第四子、宣宗王の弟、義天という高僧が、宋や遼のみならず、日本へまで僧のネットワークを使って仏典を収集したとのこと。
高麗で出版された10年後には、日本で転写されている。
王族が高僧でもあるのは最強ですね。大義名分はお経のため、実際は?僧侶のネットワークがあるのでしょうね。玄奘も道中、突厥可汗から手厚くもてなされ、道中の国の責任者への通行手形のような手紙や、通訳もつけて送り出されたそうです。歴史に残る唯一の遼の使節と大和朝廷の接触。
p29 929年から930年にかけての日遼交渉(両者の正式な交渉)の記録は重要な意味を持つ。この交渉は、929年12月に東丹国の使節93名が丹後に到着して日本との交渉を求めたが、翌春、日本の朝廷はこれを結局拒絶した、というものである。
使節の人数は、842年以降ほぼ105名が通例となっていた日本への渤海の使節の員数に匹敵する。そして105名の中には通常65名からなる首領と称される者たちが含まれていた。おそらくこの東丹使の中にも一定数の首領が含まれていたとみるべきであろう。首領とは渤海の支配者層を示すものと理解されている。
何よりも重要なことは、渤海の首領層を使節に参加させたことである。これは、東丹国(及び契丹遼は、在地の支配者に対する交易機会の提供と引き換えに、彼らを服属させていた渤海の統治のあり方を十分認識した上で、首領たちを日本への使節に参加させたことを端的に示すものといえよう。
鳥居は台湾への調査の成果をいかし、中国西南地域へと向かう。台湾の「蕃族)」(『中国古典』多数あり)と中国西南のミャオ族が人類学上密接な関係をもっているのではないかとの学術的要請のためである。これは鳥居にとって初の自らの学術的要請による調査であった。1902年7月から1903年3月にかけて、9か月にわたって主として貴州省のミャオ族と雲南省のイ族の調査を行い、西南中国と台湾と日本の共通性を探る試みを行った。しかし、「ある人々に妨止せられて」[7]中国西南部へは二度目の調査を行うことはなかった。
[7]中薗英助『鳥居龍蔵伝―アジアを踏破した人類学者』p.128.
調査の邪魔をした、ある人々とはどんな勢力でしょうね。
そして以下の著書も気になりますね。
『苗族調査報告』1907年
『遼の文化を探る』章華社、1937年