東方選書 2015/10 沢田勲著
以前読んだ本の中で、面白かったことを要約します。
小林惠子先生によると、匈奴の末裔が突厥、エフタル、鮮卑のようです。これらの民族が、古代天皇家にも影響を及ぼしていたそうです。
万里の長城が築かれる元になった遊牧騎馬民族の匈奴について目を引いたのが、聖徳太子の文と激似の文章です。「天地の生むところ、日月の置くところの匈奴大単于、敬みて漢の皇帝に問う、恙きや」と老上稽粥大単于(前174-前160)が唐の皇帝に書き送ったという。
匈奴と月氏と漢の関係がよくわかりました。しばしば、漢の重臣も匈奴に投降し、その位が高いほど匈奴は喜び、位を与え取り立てた。逆も然りで、匈奴の王が漢に投降したケースも。漢皇帝も喜び、客臣という待遇を与えた。匈奴と月氏は隣国のライバルです。
p9 モンゴル草原は内陸アジアのアルタイ・カザーフ草原と連なっており、この地域での情報、文化の伝達は極めて速い。遊牧民は農耕民と違って、一箇所に定住して自己完結的に生活することはできない。天幕を立てる木材、防寒着としての毛皮、遊牧に使用するナイフなど、物資を周辺の諸民族との交流によって獲得しなければならない。移動生活を送る彼らは、先天的に商業民族としての性格を兼ね備えていたのである。同時に、常に的確な情報を得ることが、彼らにとって死活問題であった。
p21 匈奴は略奪戦争で中国の農民を数多く拉致している。中国の豊富な労働力は魅力的であり、彼らより中原の情報を得ることもできた。武帝の時代、漢が鋳鉄技術の流出を恐れて、北方への鉄の輸出を禁止したのは、そのことを端的に物語っているのではなかろうか。
p28 中国全土を統一した高祖は、匈奴に備えるべく猛将・韓王信を山西省に移した。日頃より匈奴の騎馬軍団の恐ろしさを肌で感じていた韓王信は、高祖からの匈奴討伐命令に背いて、和平の道を求めた。漢帝室には裏切りと映り、窮地に追い込まれた信は副将の王黄らと共に匈奴に降ったのである。
単于は韓王信の兵も得て40万、高祖は32万の軍団で激突。だが高祖の本隊は、単于冒頓の戦略にかかって孤立し、白登山で7日間飢えに苦しんだ。世に言う「平城の恥」である。
命からがら長安に逃げ帰った高祖は、劉敬を匈奴に遣わして和平を求めた。漢と匈奴で交わされた約束は次の通りである。
1)漢帝室の女を公主(皇女)とし、単于の閼氏として差し出す。
2)毎年漢は匈奴に綿、絹、酒、米などを献上する。
3)皇帝と単于との間に兄弟の盟約を結んで和親する。
形式的には漢皇帝が兄、匈奴単于が弟となっていても、これまで夷狄としていた匈奴を対等な相手として認めなければならないことは、屈辱以上の何ものでもなかった。
p32『史記』(「匈奴列伝」)によれば、冒頓単于は前176年、月氏を滅ぼし、楼蘭、烏孫、及び近隣の26カ国を平定したという。
これは裏返せば、この時まで月氏がこれら西域諸国を支配していたことであり、西域南道の玉の交易を月氏が独占していたことが裏付けられよう。
p33 老上単于が月氏王の首を刎ね、酒宴に置いてその頭蓋骨を酒杯として用いたことはあまりにも有名である。この風習はユーラシア諸族の間で広く行われており、敵の首領の首を酒杯にすることにより、自らの強さを誇示する意味があった。しかしこれが月氏の遺民たちの怨みを買い、のちに武帝によって漢・月氏連合による匈奴挟撃作戦が生み出された。
王昭君は、匈奴に嫁入りした漢の女性の中ではむしろ、幸せな境遇だったようです。嫁した単于は老王で長男を得て、次に老王の息子が単于になり、嫁して二人の女子に恵まれる。二人は名家に嫁いで居次(漢の公主、王女の称号)になっている。お墓も立派。
p68 中国王朝が採った異民族に対する政策の中で最も重要なものとして、宮廷の女性を異民族の君長に妻として与える通婚政策がある。こうした女性は公主と呼ばれた。高祖劉邦が、匈奴との和平条件の一つとして、単于に自分の娘を送ると約束したことから始まると言われている。実際には公主は皇帝の娘とは限らず、劉氏の一族または後宮の娘を皇帝の娘と詐って、匈奴単于に送っていたようである。
唐が国内治安と吐蕃(チベット)牽制のために軍事援助を求めて、ウイグルに皇帝直系の娘を差し出したときの状況とは違っていた。
p91 動物紋様を主体としたオルドス青銅器の芸術性は、美術史家によって高く評価されているが、それは取りも直さず匈奴が高い技術力を持った手工業者をその配下に擁していたことを証明している。
桃紅巴拉墓からは鳥頭触角式の青銅製短剣とともに鉄製鉄剣が発見された。これらの剣の鞘には豪華な黄金の装飾が施され、当時かなり高度な技術が存在したことを証明している。出土品の多くは中国内モンゴル自治区都フフホト市にある、内モンゴル博物館に陳列されている。匈奴がこの地において、精錬技術者に鉄製品を制作させていたことは疑いない。
匈奴の葬礼についての章は興味深いです。小林惠子元岡山大助教授によると、異風の人々が遠くからやってきて、顔に傷をつけ聖徳太子の墓の周りを泣きながら馬に乗って7回回ったのち、馬から降りて伏して別れを告げた、と読んだ記憶があります。聖徳太子が遊牧騎馬民族西突厥族の大可汗だったとしたら、大陸から崩御の噂を聞きつけた元部下たちがやってきて悲しんでもおかしくないかも。
とはいえ、実際は聖徳太子、またの名、倭王多利思比孤は、ササン朝ペルシャのシャフリバザール将軍でもあり、息子がササン朝ペルシャ最後の王、ヤズドガルド三世になった、と「聖徳太子の真相」に書かれています。
p111 匈奴では殉死も行われていた。死者を弔うため、葬送の時顔面に刀傷をつける風習があり、血を流すことによって死者と遺されたものが一体化し、死者を蘇生させんという意味合いがあった。この風習は北方ユーラシアの諸民族に広く行われ、スキタイ、フン、突厥、女真などにも見られる。
p112 霊魂が宿るといわれる頭髪の一部を抜いて死者に捧げ、死者の霊魂を呼び戻す風習もあり、ノイン・ウラ墳墓から発見された多くの弁髪は、この風習の存在を示すものであろう。
顔に傷をつけ、髪を切ることで、殉死によって失われる命を救い、労働力と戦力の喪失を防いだのである。