好きなもの、心惹かれるもの

本、音楽、陶器、織物、手芸品をご紹介します。

楠本稲

シーボルトと現地妻楠本瀧、娘の稲、孫娘の高、そしてシーボルトが日本に残したイギリス製のピアノのエピソードを見つけました。

幕府から追放された30年後に、再びやって来たシーボルトは、本当にお瀧さんを愛していたんですね。でも最後はドイツへ帰ったのですね。

www.sankei.com

楠本瀧(源氏名 其扇)

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シーボルトと子供達について、下記のブログ主様が、詳しく写真付きで書かれています。

この写真は、いかにもハーフ顔ですね。

楠本稲

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aobahigashi.web.fc2.com

 

シーボルトの孫になる楠本高と最初の夫。

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deepazabu.blogspot.com

 

blog.goo.ne.jp

日本最古のピアノは、 ドイツよりオランダ経由で長崎に運び込まれ、 山口県萩市にある熊谷美術館にある。ドイツ貴族、シーボルトが 自分が愛用していたピアノを日本に持って来た。
五右衛門は毛利藩所帯型御用達商人で、出島に出入りする蘭学者達のスポンサー的役目もしており、 同じ長州出身の岡研介という蘭学者に多くの援助を行っていた。岡はシーボルト門下のオランダ語会話に秀でた人物で、 シーボルトに面会する者は皆、研介の世話になったという。
このピアノも、研介を通じて シーボルトから五右衛門の手に渡った物だった。
そして、楽器が出島から萩へ向かった直後に、 かの有名な「シーボルト事件」が起きたので、
熊谷家ではそれ以後、ピアノを人目に触れないよう、 一切口外しないようにしていたが、
1955年になって、様々な調査が行われるようになった。 今でも当時と同じ音を奏でるとか。

元禄時代までの絵画など

写真のピンボケぶりが半端なくて申し訳ないです。

 

小早川秀秋の陣羽織

違鎌のアップリケ?初めて見ました。

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南蛮人が描かれた馬の鞍、南蛮寺扇面と、少年使節が持ち帰った地図を元に、イエズス会の画学舎で描かれた世界図。

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秀吉が聚楽第に、後陽成天皇を招いた時の記念の図と言われる。右の建物の御簾の中が天皇。右下端と、中央赤い敷物の上に、南蛮人らしき人々がいる。この絵の中で、秀吉はどこにいるのでしょうか?

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祇園祭の屏風

織田信長天正二年(1574年)に上杉謙信に贈ったと言われる洛中洛外図屏風の一部で、狩野永徳筆。山鉾には、ベルギー製の織物が使われている。

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東福門院入内図

元和六年(1620年)、秀忠の末女和子が御水尾天皇の女御として入内した時の有様を描いた屏風、二条城から御所に向かう一行。和子は明正天皇を産み、のち東福門院と称された。

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四条河原図

京都加茂川の四条河原は、遊興歓楽の地でした。右中央は遊女歌舞伎小屋で、赤い幕に「うきよさど嶋大かぶき」と書かれている。その左はハリネズミ見世物小屋で、左端は賀茂川で、漁をする人がいる。

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島原の乱

踏絵の写真、初めて見ました。

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ラテン語でなんと書かれているのでしょうか。

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京都の遊郭であった島原に残る角屋(すみや)の戸口。何のお花でしょうか?ちょっと紅型風だと思いました。

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洛中洛外図巻より

住吉具慶の洛中洛外図巻の一部。下は町屋で、本屋、弓師、経師の店があり、手前に織屋、染物屋がある。

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銀吹替御軸物より

金座で極印(ごくいん)を打っている絵

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朝鮮人来朝図

将軍が就任するごとに来朝する朝鮮の慶賀使節が、江戸市中に入った絵。

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捕鯨

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紀州熊野浦諸鯨之図 1723年 東京大学図書館蔵

小さな舟を連ねて、捕鯨をしていたんですね。万治・寛文頃から網取法が考え出された。

何だかコミカルな絵。

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鯨取り 司馬江漢

この鯨さんの絵が可愛い。

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この飾り船は、朝鮮使節来朝の様子。将軍を日本国大君と称するのをやめて、日本国王としたことも、礼文主義の現れ。朝鮮使節対馬から瀬戸内海を通り、大阪から陸路江戸へ下った。

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長崎出島と唐人屋敷

出島には甲比丹(カピタン=商館長)以下二十人足らずの館員がいて、その住居や倉庫など四十棟ほどがあった。

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享元絵巻

徳川宗春は、吉宗の改革に反し、遊郭を設けたり芝居興行を許すなど繁栄策を講じたが、吉宗によって処罰された。絵は大須観音界隈の賑わい。

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www.museum.city.nagoya.jp

 

鍬形蕙斎 近世職人尽絵詞よりf:id:MeinFavorit:20210909202157p:plain

 

蝦夷地絵図

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大黒屋光太夫ともう1人磯吉しか、生きて日本に戻れなかったのですよね。中には片足を失い、ロシアの女性と結婚して現地に残った乗組員もいたそうです。確か光太夫は、事情聴取の後、座敷牢と言うのか、閉じ込められて、郷里に戻ることも許されなかったと思います。故郷に生存は知らせられたかどうかはよくわかりません。

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レザノフ絵巻より

寛政四年(1792年)に根室に来たラクスマン(大黒屋光太夫を送って来た)に次いで、文化元年(1804年)レザノフが長崎に来て通商を求めた。上陸して奉行所に向かうところで、レザノフは駕籠に乗っている。

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寛政四年(1792年)にラックスマン松前に来た時、幕府は長崎入港の許可証を与えた。ラックスマンはそのまま帰国したが、文化元年(1804年)9月にロシアの全権大使レザノフが、クルゼンシュテルン大佐の指揮する軍艦ナデジュダ号で長崎に来航、上陸、通商を求めた。

長崎奉行はレザノフを仮館に軟禁状態にして置いて、幕府の司令を仰いだが、半年後の翌年二年三月に通商を拒絶した。レザノフはこれに憤慨して、のちに樺太のクシュンコタンや択捉を部下に襲撃させた。

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間宮林蔵

レザノフの部下が、樺太択捉島で暴行した事件が伝わると、幕府は東蝦夷地を直轄にしていたのを、さらに西部に及ぼして、蝦夷地全体を上知させ、松前氏を陸奥梁川(やながわ)に移し、箱館奉行松前に移して松前奉行と改めた。

同時に蝦夷警備兵を増員し、若年寄の堀田正敦を防衛総督に下が、さらに同五年に間宮林蔵と松田伝十郎に樺太探検を命じた。両人は、北緯51度50分のラッカまで行き、樺太の離島であることを推測した。翌年、林蔵は大陸に渡り、海峡の存在を明確にした。シーボルトにより、間宮林蔵の名がヨーロッパに知れ渡った。

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シーボルトはドイツの医師で、文政六年(1823年)にオランダ商館付きの医官として長崎へやって来た。一年後長崎郊外の鳴滝に塾兼診療所を開くことが許され、丸山の遊女其扇(そのき)=楠本お滝と同棲して、娘いねが生まれた。

文政十一年にシーボルトが帰国するとき、幕府の天文方の高橋景保からもらった日本地図が発見され、シーボルトは再渡航禁止を言い渡され、多数の関係者が処分された。密告者は、隠密の間宮林蔵といわれる。

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印旛沼干拓

印旛沼干拓は、田沼意次水野忠邦の命取りとなった工事。右は、その完成予想図。左は天保の時に工事を分担した庄内の酒井家の人足が排水工事をしている様子。

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松前檜山屏風

アイヌ村でニシンの漁業が盛んに行われているところ。内地商人が暖簾を連ねて漁獲物を待っている。

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徳丸原銃陣図

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以上「日本の歴史」別巻3より。

慶長遺欧使節

こちらも帰国後、キリシタン迫害が真っ盛りで、悲しい顛末になったのでした。少年使節に比べて、支倉常長は武士ですし、かなり本格的な外交任務を遂行したと思います。スペイン国王、ローマ法王との謁見以外にも、メキシコにも行っています。伊達政宗の指示で動いたように見えますが、当然家康の許可も取っていたのでは。商人達も同船していたと、本で読みました。しかし、この旅の費用は誰が支払ったのでしょうか?イエズス会でしょうか?

ローマ・クイリナーレ宮殿の王の間にある慶長遣欧使節を描いたフレスコ画アゴスティーノ・タッシ作。常長は前列左、ソテロは前列右。後列4名の日本人は、常長とともにローマ公民権を与えられた、山城の滝野加兵衛、摂津の商人・伊丹宗味、尾張の野間半兵衛、奥州の小寺外記だと考えられる。

“Philippo Francisco Faxecvra Rocvyemon” のローマ市公民権証書 仙台博物館蔵 国宝

支倉常長の西洋式の紋章は盾の中に右卍をあしらったものだった。左はローマ市民権の認定の中に描かれた紋章、中はドイツの記録に残る紋章、右は常長の船の旗。

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支倉常長は、元亀二年(1571年)、桓武天皇を祖先とする桓武平氏の流れを汲む山口常成の子として羽州置賜郡長井荘立石邑(現在の山形県米沢市立石、米沢市立関小学校の周辺)に生まれる。その後、伯父支倉時正の養子となり、7歳から陸奥国柴田郡支倉村(現在の宮城県柴田郡川崎町支倉地区)に在する上楯城で長い青年期を過ごした。その後、時正に実子・久成が生まれたため、伊達政宗の主命で家禄1200を二分し、600石取りとなる。

文禄・慶長の役に従軍して朝鮮に渡海、足軽鉄砲組頭として活躍した。また葛西大崎一揆の鎮圧にあたった武将の一人としてもその名が記録されている。

慶長14年(1609年)、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行(サン・フランシスコ号)がヌエバ・エスパーニャ副王領(現在のメキシコ)への帰途台風に遭い、上総国岩和田村(現在の千葉県御宿町)の海岸で座礁・難破した。地元民に救助された一行に、徳川家康ウィリアム・アダムスの建造したガレオン船サン・ブエナ・ベントゥーラを贈りヌエバエスパーニャ副王領へ送還した。この事をきっかけに、日本とエスパーニャ(スペイン)との交流が始まった。

エスパーニャとの交流ができたことにより、常長の主君である伊達政宗はヨーロッパに遣欧使節を送ることを決定した。遣欧使節エスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ (Luis Sotelo) を副使とし、常長は正使となり、180人から組織され、エスパーニャを経由してローマに赴くことになった。遣欧の目的は通商交渉とされているが、エスパーニャとの軍事同盟によって伊達政宗倒幕を行おうとした説も存在している

慶長17年(1612年)、常長は第一回目の使節としてサン・セバスチャン号でソテロとともに浦賀より出航するも、暴風に遭い座礁し遭難。再度仙台へ戻り、現在の石巻市雄勝町で建造したガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で慶長18年9月15日1613年10月28日)に月ノ浦(現・石巻市)を出帆した。なお、短期間に洋式船を建造していることから、最初に座礁したサン・セバスチャン号を譲り受けて修理し、サン・ファン・バウティスタ号として出航させたのではないか、とする説もある

出航後、常長らの一行はエスパーニャ(現スペイン)のヌエバエスパーニャ副王領であり、北アメリカ大陸太平洋岸にあるアカプルコ(メキシコ・ゲレーロ州)へ向かった。アカプルコにおいて北アメリカ大陸に上陸を果たすと陸路で大西洋岸のベラクルス(メキシコ・ベラクルス州)に移動、ベラクルスから大西洋を渡り、サンルーカル・デ・バラメーダ(スペイン・アンダルシア州セビリア県)に到着、小型帆船に乗り換えてグアダルキビール川を遡上し、コリア・デル・リオに上陸した

 

慶長20年1月2日1615年1月30日)にはエスパーニャ国王フェリペ3世に謁見。マドリードで国王列席の下、洗礼を受けた。その後、イベリア半島から陸路でローマに至り、元和元年9月12日1615年11月3日)にはローマ教皇パウルス5世に謁見した。ローマでは市議会から市民権と貴族の位を認めた「ローマ市公民権証書」を与えられた。その後もマドリードに戻ってフェリペ3世との交渉を続けている。

しかし、エスパーニャやローマまで訪れた常長であったが、この時既に日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、それが欧州に伝わりつつあった[2]こともあって通商交渉は成功することはなかった。常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日1620年9月20日)に帰国した。

こうして遥々ローマまで往復した常長であったが、その交渉は成功せず、そればかりか帰国時には日本では既に禁教令が出されていた。そして、2年後に失意のうちに死去した。棄教したとも言われたが、遣欧使節に加わっていたルイス・ソテロ神父が1624年に九州で書いた手紙では、常長は「敬虔のうちに死去」して宣教師の保護を遺言したと記している

常長の墓といわれるものは宮城県内に3ヵ所 ( 仙台市青葉区北山にある光明寺北山五山の1つ )、川崎町支倉地区の円福寺、そして大郷町の西光寺 ) 存在する。

その後の支倉家は嫡男常頼が後を継いだが、寛永17年(1640年)、家臣がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され断絶した。しかし寛文8年(1668年)、常頼の子の常信の代にて許され家名を再興した。その後、第10代当主の代まで宮城県黒川郡大郷町[8]、第11代から現在の第13代支倉常隆、そして第14代支倉正隆に至るまで、宮城県仙台市に居を構え続けている。また、支倉常隆は日本国内ならびに世界各国を周って先祖の常長の功績を伝え、現在はその子正隆が引き継いでいる。大正13年(1924年)、正五位を追贈された

常長らが持ち帰った『慶長遣欧使節関係資料』は仙台市博物館に所蔵されており、平成13年(2001年)に国宝に指定されている。また、2013年にはユネスコの「世界の記憶」(記憶遺産)の一つに選定された。その中には常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵としては最古のものとされる。この絵は、上記の支倉家断絶時、聖母マリアの絵などとともに仙台藩が押収したものである[2]。また、常長自身が記録した訪欧中の日記文化9年(1812年)まで残存していたが、現在は散逸しており幻の史料となっている。なお、資料の中に「支倉」を FAXICVRA とつづった部分があり、当時ハ行を唇音で発音(ハ行転呼を参照)していた証拠となっている。

天正遺欧少年使節

天正遺欧少年使節について、あまり知らなかったので、wikiをチェック。なかなかすごい運命の人生だったのですね。とても似ているのが、伊達政宗が企画して支倉常長が正使の慶長遺欧使節

f:id:MeinFavorit:20210906113111p:plain1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節肖像画。タイトルには「日本島からのニュース」と書かれている。京都大学図書館蔵。
右上・伊東、右下・千々石、左上・中浦、左下・原。中央・メスキータ神父

 

伊東マンショ

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千々石ミゲル

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中浦ジュリアン

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原マルチノ

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1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名大友義鎮(宗麟)・大村純忠有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。

 

ヴァリニャーノは自身の手紙の中で、使節の目的をこう説明している。

研究者の伊川健二は、ヴァリニャーノを正使とした使節団がインドゴアを中心に、日本からヨーロッパへの橋渡しをしたことを主張している。また彼らは、ヨーロッパへ渡りはじめて帰国した日本人とされる。渡欧し、現地に残ったものは、1555年のベルナルドなどが確認されている。

使節の少年たちは有馬晴信日野江城下に建てたセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた。使節4名の正確な生年月日は不明だが、派遣当時の年齢は13 - 14歳であった。中浦ジュリアンが最年長、原マルティノが最年少と言われる。

 

写真は中浦ジュリアン

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室町、戦国時代の絵など

「日本の歴史」別巻2より、目に止まった絵画や、出来事をご紹介します。全く初めて目にした絵もありました。

 

大分県臼杵市の崖の大仏  とても安らかなお顔で好きです。

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中尊寺金色堂の華鬘(けまん)

東大寺の金堂前にも似たお顔の灯篭がありますよね。

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藤原秀衡のミイラだそうです。

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男衾三郎絵詞より

この絵は、戦いの場面なのに、可愛らしい顔ばかりだし、マンガチックです。

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一遍聖絵より

三島神社に詣でる一遍

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石山寺縁起絵巻より

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蒙古襲来絵詞より

少弐景資の陣 博多湾に上陸した蒙古軍との戦闘を前に、博多の住吉神社ほど近くに陣を固めた景資29歳、率いる手勢五百騎。

なんとなく少女漫画家が描いたような絵です。

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蒙古襲来絵詞より

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f:id:MeinFavorit:20210905180659j:plain右から二人めの足の下に、顔を覗かせている侍がいます。

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考古襲来絵詞

見辛いのですが、どの顔も可愛いんです。

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山王霊験記より

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密教僧の袈裟をお召しの後醍醐天皇肖像

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紀伊国阿氏河荘上村の百姓の訴状

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大内氏によって偽造されたらしい、日本国王の印だとか。

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三島水軍の旗

三島水軍は瀬戸内海を主な舞台としたが、倭寇活躍の背景には、源平合戦以来しばしば戦史を飾った北九州、瀬戸内海、熊野などの武士団が形成した水軍の伝統があった。

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室町時代 高機を使う民間機屋

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祭礼草紙

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神社の祭礼の折などに、風流(ふりゅう)と呼ばれる飾り物を作って、練り歩くことが流行した。風流とは元来衣服や車につける飾りの花のことだったが、室町時代になると、趣向を凝らした一種の仮装行列になった。

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1番左のお供えものに乗っているお人形?は何を指差しているのでしょう。

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右から3つめのお供え物の布、十字のチェックのように見えますね。

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十二ヶ月風俗図帳より

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西行物語絵巻より

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左のお転婆娘が可愛い。

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法然上人絵伝より

笹に手綱をつけて馬になぞらえて駆けている少年達。この遊びを竹馬と呼んでいたとか。

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死骸を飢えた馬や犬が食べるという悲惨な一面も。

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風俗図屏風

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鍋の蓋のような物を持って、防御しているのが面白い雪合戦。

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真如堂縁起より応仁の乱

三頭身ですね。

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高雄観楓図屏風

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天正三年、三河に進出した武田の騎馬隊が、織田・徳川軍の鉄砲によって壊滅した屏風絵。

従軍画家がいたのでしょうか?記録とデモンストレーションのための屏風なのでしょうね。

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ザビエル像

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この草書体のサインは、人名でしょうか?

四国都市屏風

キリシタン遺物の八曲片双屏風。リスボンマドリード、ローマ、コンスタンチノープルの四都市が描かれている。これはリスボン

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西洋王侯騎馬図

四曲片双 伝山田右衛門作 1592年(文禄元年)?166cmx458cm

神戸市立南蛮美術館蔵

九州三侯の遣欧使節の帰国後、イエズス会の神学校で作られたもの。当時、西欧諸侯と異教徒との対戦を描いた絵を日本人に見せると、布教に甚だ有効と考えられていたそう。

日本人が描いた絵だそうです!

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マリア十五玄義図

キリシタン大名高山右近の旧領摂津高槻で、昭和初年に発見された。原画を日本の絵師が模写したもの。下にロヨラとザビエルが描かれ、周囲には受胎告知に始まるキリストの伝記が十五の場面に綴られている。

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天正使節

天正十年(1582)から八年に渡って西欧諸国を歴訪し、ローマ教皇にも謁見した少年使節団は、至るところで歓迎を受けた。案内のメスキータ神父を囲む四人の肖像で、右上正使、伊東マンショ。1586年ドイツのアウグスブルグで刊行された。

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大道寺創建裁許状

周防国吉敷郡山口県大道寺事、従西域来朝之僧、為仏法紹隆可創建彼寺家之由、任請望之旨、所令裁許之状如件、天文二十一年八月二十八日周防解御判 当寺住職」と書かれ、ポルトガル語の翻訳をつけたこの文書は、大内義長が宣教師トルレスに与えた教会建立の許可状案の写しである。このような南蛮寺は、のち京都にも作られるが、秀吉の禁令によって破却される。

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以上写真は「日本の歴史」別巻2より

滝廉太郎 「憾(うらみ)」

若き天才、23歳滝廉太郎が、結核で余命少ないことを知り、無念を表した最後の作品だそうです。小原孝さんというピアニストは、今、知りました。滝廉太郎が世界的に知られた作曲家ではないので、いわゆる巨匠がこの曲を弾いたyoutubeはありません。日本人ピアニストの数少ないyoutubeの中で、小原さんの柔らかいタッチが、繊細な廉太郎にふさわしい。一番切なさが表現されていて、素敵でした。悲しい、美しい小品です。

 

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東京芸大卒の後輩、黒岩航紀さんが弾く憾も良かったです。

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前田勝則さんも良いです。この方は、左手の伴奏をアレンジされているようです。

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奈良の都の名残

唐招提寺金堂のエンタシスの柱

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錦織の中央にいるのは、尾の長い鳥のようです。

上の写真を左に90度回転してみました。

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東大寺献物帳

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鳥毛篆書屏風
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竹生島

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伊勢集

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駒競行幸絵巻

1024年(万寿元年)関白頼通の邸のこまくらべに、後一条帝が行幸されたありさま。

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平等院鳳凰堂 雲中供養菩薩像

肉感的だなと思いました。ビーナスのような。

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空海が入唐中に筆記した真言法文の抜粋三十帖を納めた箱。箱は919年(延喜19年)に朝廷から下賜されたもの。黒漆塗りに金銀の研出蒔絵で文様を描いている。

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年中行事絵巻より内宴

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尾張国郡司百姓等の解文(げぶみ)

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掛け算の九九、当時は今と逆の数え方だったとか。

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三千院阿弥陀三尊

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右の観音像がとても楚々とした美人です。仏像のモデルになったのは、どなたか妃なのでしょうね。

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以上「日本の歴史」別巻1 中央公論社より