好きなもの、心惹かれるもの

本、音楽、陶器、織物、手芸品をご紹介します。

韓国の古墳出土品

韓国の古墳から出土した宝物は、日本の古墳から出土したものとよく似ているのですが、以下のものは、日本で見た記憶がありません。日本には五十鈴と呼ばれる、3つの鈴が三角状になったものはありますが。

f:id:MeinFavorit:20200724192635j:plain

 

f:id:MeinFavorit:20200724192726j:plain

 

可愛らしく、鬼というより太陽?と思いました。復元品の写真はなかったので、どんなものについていたのかわかりません。

f:id:MeinFavorit:20200724192813j:plain

 

f:id:MeinFavorit:20200724193550j:plain

 

「カチン族の首かご」

妹尾隆彦著

 

戦時中の暗い話ではなくて、非常に珍しい実体験のお話。ビルマ北方にいた22歳陸軍一等兵の妹尾氏が、カチン族に慕われて王様に即位し、町の復興をしたりカチン族のために色々な行政を試みる。英国軍からは、首に懸賞金までついて、退却命令が来る。別れのシーンは、涙が出ます。

その後のカチン族はどうなったのか、気になるところですが、妹尾氏は以後生涯、訪れることはなかったのですね。

それにしても、このような奥地での日本軍の目的は何だったのでしょうか?鉱脈を探していた?

ktymtskz.my.coocan.jp

古代文字資料館

古代文字資料館(旧サイト)

http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/p.html

(新サイト)

kodaimoji.her.jp

がとても面白いです。古代文字の学術的な論文や対談もありますが、エッセイも楽しい。

中国語の漫才を大阪弁で説明してくださっています。

 

珍しい形の印章。

パスパ文字 モンゴル語 印章

f:id:MeinFavorit:20200718102345p:plain

「印記」

f:id:MeinFavorit:20200718102354p:plain

www.for.aichi-pu.ac.jp

このいろいろな話、というコラムはずっと繋がっていて、この話だけのURLがありませんので、上記のページから この漫才の話だけこちらに。

 

舞台で聞いた中国語19……廃話!(アホ言え!)
 いつも演劇に注目しているが、ときどき目先を変えて、お笑いコント(小品)や漫才(相声)、 テレビドラマ(電視劇)なども見ている。演劇と違って、コントや漫才はウェブ上で舞台の録画がたくさん公開されていて 手軽に見ることができ、大変便利だ。

 最近は漫才が気に入っている。漫才師(相声演員)を他によく知らない、というのもあるが、 有名な郭徳綱・于謙のコンビがやはりおもしろい。郭徳綱は貫録のある外見ながら、1973年生まれ(天津出身)である。 無名の下積み時代が長かったようだが、今では主宰する徳雲社という漫才社団の人気も高く、 多くの弟子や若手芸人を抱えて漫才活動を展開している。ホームページによると、 徳雲社は北京市内6か所の茶園式劇場を拠点にする他、南京、黒竜江西安にも劇場がある。 若手が数多く出演する毎日の定期公演は、チケットが20~120元程度と気軽に足を運べる価格だ。 ただ、大御所の郭徳綱となるとチケットは価格もさることながら、入手自体まず困難のようである。


 郭徳綱は漫才(対口相声)と講談(単口相声、評書)どちらもやるが、于謙のツッコミが絶妙なので、 やはり掛合漫才がおもしろい。日本の漫才と同じように、中国もボケとツッコミの役割がはっきりとある。 ただ、中国はボケの方が圧倒的に発話量が多い。滔々と話すボケに対し、微妙な間合いをとらえて合いの手と切り返しを入れ、 ボケを引き立てるのがツッコミの役割のようだ。

 つい話を引っ張っていくボケの方を熱心に聞いてしまうが、ツッコミの言葉をよく聞くと、こちらもなかなかおもしろい。 たとえば、「廃話!」「神経病!」「胡説八道!」「甚麼玩意儿!」などである。 こうした中国語の語気はかなり鋭く下町風だと思うのだが、一つずつ直訳すると、「くだらないことを!」「頭がおかしい!」 「でたらめを言っている!」「なんという奴だ!」というやや調子が狂う日本語になってしまう。意訳はまとめて、 「なんでやねん!」「何ぬかしとんねん!」「アホ言え!」「待たんかい!」「どないやねん!」 などといったお決まりのフレーズが相当するだろうか。 

 他にも、「甚麼乱七八糟的!」(何わけのわからないことを!)、「甚麼毛病!」(それおかしいでしょ!)、 「好好儿説話!」(ちゃんと言いなさい!)、「有完没完!」(いい加減にしろ!)等々、逐一拾っていけばまだまだある。 これらは日常生活の文脈に持ってくるとただの喧嘩になってしまうから、そう使う機会はなさそうだ。が、もちろん相手を見つつだが、 少し不満を表明したいときなどには使えるかもしれないな、とひそかに覚えておこうと考えている。
[2016.4.19 榊原真理子]

「古代の日本と朝鮮」

1919年朝鮮、慶尚南道に生まれる。1930年日本に渡り1941年日大芸術科卒業。神奈川新聞、京城日報記者、『民主朝鮮』編集者を経て、作家生活に入る。
金達寿小説全集』『日本の中の朝鮮文化』など、多数の著書がある。
 

ネットで読めるサイト。古い本ではありますが、興味深く読みました。私の感想は、西アジア中央アジア、南アジアから人々が古代日本にやって来て住み着いたと思っていた時期もありましたが、日本からアジアへ出て行ったという逆方向も同時にあったという結論になっています。

奈良の飛鳥寺のあるあたりを、真神原と呼び、真神とは狼のことであることを知りました。狼を祀る三嶺神社みたいですね。狼をトーテムとするのは、突厥族だと小林惠子先生。まかみがはら、と濁音を入れるのは本来の読み方ではないらしいです。古代の日本語は、濁音があまりなかったとか他所で読みました。

飛鳥戸一族とはなんぞや?と思ってwikiで探すと、

「飛鳥部 奈止麻呂(あすかべ の なとまろ)は、奈良時代の官人。氏姓は安宿公・百済安宿公・飛鳥戸造・安宿戸造とも。官位正五位上出雲。」が出て来ました。

子孫はいらっしゃるのでしょうか。

また、月読神社に11基もの秦氏の古墳があるなんて、初めて知りましたし、東大寺の中に、韓国神社があったとも、初耳でした。ひっそり残された史実を掘り出したような感じで読みました。下記に面白かった箇所をコピペ。

 

飛鳥坐神社近くの、真神原(まかみはら)にある川原寺や橘寺などを前方にした飛鳥の中心部であるが、慶州に似たところである、ということは小林秀雄氏の一文にもあったが、「日本文化のふるさと、慶州・扶余・飛鳥」とした山本健吉井上光貞両氏の「対談」でも語られている。

寺地の真神原帰化東漢氏の支配地で、百済系の帰化人飛鳥衣縫造(きぬぬいのみやつこ)の住んでいたところでした。東漢氏の支配地に蘇我氏族の氏寺である飛鳥寺が建立されたということは、両者が一体的な関係にあったということをものがたるものにほかならない。
飛鳥寺が正式に発掘調査されたのは一九五六年で、一塔三金堂の伽藍配置をもった飛鳥寺は、百済ばかりでなく高句麗の清岩里(せいがんり)廃寺の様式にも通じていることがわかった。伽藍配置にみられるだけではない。飛鳥寺が建立された当初の寺司は、蘇我馬子の子の善徳臣(ぜんとくのおみ)というものだったが、住持(=住職)百済僧の恵聡と、高句麗僧の恵慈であったことからもそれはわかる。当時の飛鳥では、百済高句麗とが一体的な関係となっていたのである。飛鳥における高句麗といえば、一九七二年二月、桧隈で発見された高松塚壁画古墳で広く知られたものである。

 

*桧隈(ひのくま)の近くに栗原というところがあるが、もと呉原(くれはら)といったところで、『日本書紀』雄略一四年条に、「即ち呉人を桧隈野に居らしむ。よりて呉原と名づく」とあるそれであった。いま栗原にはその遺跡である呉原廃寺跡があり、呉津彦(くれつひこ)神社がある。
「呉人」「呉原」のクレとはどういうことであったか。漢氏族の漢と同しように、呉などという字があてられたものだから、古代中国にあった呉国(ごこく)のそれと間違えられたりしているが、これも高句麗からきたものであった。高句麗朝鮮語でコクレというのであるが、高は高句麗の国姓であり、大和の「大」と同じ美称(和の一字だけでもやまととよむ)であるから、その高をとるとクレ(句麗)となる。漢織(からはとり)・穴織(あなはとり)にたいする呉織(くれはとり)というのも、これからきている。

 

加夜奈留美命の加夜とは、古代南部朝鮮にあった加耶加羅=から)諸国の加耶ということにほかならない。飛鳥川の最上流、そこを越えると吉野となる芋(いま)峠の入口に栢森(かやもり)という小さな集落があって、そこに『延喜式』内の古い加夜奈留美命神社がある古代の人々がまず住んだところは、川の上流であったということばかりでなく「飛鳥の在地神」である飛鳥坐(あすかにます)神社の最初の祭神が加夜奈留美命であったことでも、そういえるのである。つまり、飛鳥へやって来た最初の渡来人は、加耶加羅)系のそれではなかったか。

 

*五世紀初めの造営という若草山頂の鶯塚古墳は、彼らの首長の一人を葬ったものではなかったかと私は思っている。いまは東大寺の地主神となっている辛国の韓国神社は、元はその古墳の拝所、祖神廟としてできたものだったはずである。
古墳と神宮・神社とは、元どういう関係にあったか。若草山の真下にあたる東大寺境内の辛国神社は、いまは小さなものとなってしまっている。しかしそれがいまなお東大寺の地主神となっていることからもわかるように、元は近くの春日大社よりはるかに大きな存在だったにちがいなかった。私は、三月堂そばの鐘楼近くにあるその小さな辛国神社の前に立ったとき、いろいろと考えさせられたものだった。
まず思いだされるのは、古代にあっての神社とは小独立国のようなものだったということである。高柳光寿氏は、「中世の神社は独立国であった」と書いているが、古代にはなおのことそうであったにちがいない。
祭政一致」という言葉があるように、古代は神宮・神社の祭祀権を持つものが、政権をも行使したのであった。もちろん独立国とはいっても、現代にあるそういうものではない。神社を中心としたそれは、中島利一郎氏のいう「朝鮮(渡来)人部落」のようなもので、村国とでもいったほうがいいものだったにちがいない。その村国をつくった彼らはこの地をナラ(国)とし、祖神の墳墓を祭ってはそれを韓国(からくに)神社(神社とは本来、神様という意)としたのであった。

ところが八世紀になると、南大和の高市郡にあった飛鳥・藤原京平城京へうつることになった。この地には、東大寺というとてつもない大寺院が造営されることになって、彼らの大部分はそこから駆逐され、韓国神社は退転して今日にみられるような辛国(からくに)神社と変えられている。東大寺から下った国鉄奈良駅近くの漢国(かんごく)町に、元は韓国神社の分社ではなかったかと思われる漢国(かんご)神社がある。 

 

わが国でアスカという地名は約十ヵ所存在するが、その中でも特に有名なのが大和飛鳥(遠(とお)つ飛鳥)と河内飛鳥(近つ飛鳥)であり、これらを「二つの飛鳥」と称している。河内の方がはるかに古く開けたようである。河内の飛鳥地方は大和の飛鳥地方と同じく古代朝鮮より渡来した人々が多数居住していたため、飛鳥とは渡来人の安住の地という意味を持つ古代朝鮮語の「アンスク」から転訛したという説が有力である。 
記紀の記録から見ると、履中時代「飛鳥山」とか「大阪の山口」(大阪への入口)の地名で記されているが、渡来氏族に関した記録としては、雄略朝に百済の混伎王(こんきおう)が渡来し、天皇から飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)の氏姓をたまわり、この地を本拠としたことは他の各種の文献からも明らかである。

飛鳥戸地方は大和川・石川・飛鳥川三河川と二上山系の山地に囲まれた地域

大阪府奈良県の県境)で、大化の改新後には飛鳥戸評(あすかべのこおり)、大宝律令後は飛鳥戸郡となり、元明天皇和銅六年(七一三)に公布された和銅令によって、「安宿郡(あすかべごおり)」と表記するようになり、明治二二年まで継続された。
 飛鳥の付近には飛鳥戸一族の氏神としての飛鳥戸神社、氏寺として近つ飛鳥寺(西の寺)や飛鳥山常林寺址、一族の共同墓地としての上(うえ)ん田(だ)古墳群・新宮古墳群・新池西古墳群・堂の谷古墳辟・オコウ古墳群など、数多くの横穴石室を持つ円墳群がブドウ畑や松林の中に約五十基残存している。
飛鳥戸一族は五世紀末から九世紀の中期にかけて居住し、数多くの文化財を残している。

 

*一万円札や五〇〇〇円札になっていた聖徳太子画像は、「阿佐太子筆 聖徳太子御影」でいまは宮内庁にあるが元は法隆寺にあったものだった。描いた阿佐太子とは、百済聖明王の第二子であったが、第三子の琳聖(りんしょう)太子は、中国~九州地方の大豪族であった大内氏族の祖となっている。

 

*高麗(こま)は「史書にはすでにこの名を逸し、伝説また早く忘れ去られた」が、しかし近くの東大阪市若江には巨摩(こま)廃寺遺跡があって、一九八〇年七月にここから日本最古の琴が発見されている。八尾市久宝寺の許麻(こま)神社はいまなおそこにあって、「高麗王霊神・許麻大神」が祭神となっている。
 
*八坂神社の創立については諸説があるが、斉明天皇二年高麗より来朝せる副使の伊利之使主(いりのおみ)が新羅国牛頭山にます祟戔鳴尊(すさのお)を八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜わったのに始まるとの説は、日本書記に素戔鳴尊が御子五十猛神(いたけるのかみ)と共に新羅国に降り曽尸繁梨(そしもり)に居られたとの伝、また新撰姓氏録に八坂造(みやっこ)は狛国人(こまのくにびと)万留川麻乃意利佐(まるかわまのいりさ)の子孫なりとの記録と考え合せて、ほぼ妥当な創立とみてよい。八坂神社と八坂寺とは、相楽郡の上狛・下狛から北上した高麗氏族が、「八坂造の名でよばれたこの地の氏族」となって建てたものであったにちがいない。祇園祭」も、もとは高麗(こま)氏族の祖神を祭ったその八坂神社の祭祀から始まったものだったのである。
 
*古墳と神宮・神社とが密接なものであったことについては、民俗学者谷川健一氏もこう書いている。
「私は日本各地の神社をたずねあるくことを仕事の一つとしているが神社の境内に古墳が多いという事実である。神社は聖(せい)であり墓地は穢(わい)であるという聖穢(せいわい)の観念にわざわいされて、神社の中に墓地があるのをかくしたがる神主や禰宜もあり、その実情に触れたがらない。
だが、こうした観念自体が仏教の渡来普及以後のことであって、それ以前には死者と生者を隔離する聖穢(せいわい)の観念があったわけではない。一族の祖先や土地の豪族の埋葬地を礼拝するのは当然のことで、後代の神道家が忌避するようなものでは全くない。神社の起源が古墳であるというのは、何も私の発見ではない。すでに江戸時代以来、多くの学者が指摘しているところである。」
 
松尾大社にみられることでもある。松尾大社背後の松尾山や周辺にも秦氏族の古墳がたくさんあって、十年ほど前までの旧『松尾神社略記』にはこうあったものである。「松尾山の頂上部に五基、摂社月読神社の上方に十一基あり、また別に神社前の田畑にあったが、今は宅地となって姿を消した。これらは、この地が秦氏による古代文化の中心地であったことを物語るものである」と。
 
*高麗王若光と猿田彦を祭ったのが高麗神社であるが、代々の宮司は王若光の血脈を伝える高麗家でいまでは第59代目となっている。高麗家には、失火などのことがあってもまだ「高麗王大刀」などいろいろな「宝物」が伝わっているが、貴重なのは、千数百年にわたる『高麗氏系図』である。高麗家の主要な分家は、高麗、高麗井(こまい)、駒井、井上、新(あらた)、神田、新井、丘登(おかのぼり)、岡登、岡上、本所、和田、吉川、大野、加藤、福泉、小谷野、阿部、金子、中山、武藤、芝木。

真実の歴史

新井信介氏のぬなとチャンネルと落合莞爾氏のyoutubeを見ていたら、以下のことに言及されていました。

226の決起将校は処刑されたことにして、実はベトナムビルマ方面に秘かに派遣され、重慶政府の蒋介石の後方撹乱(援蒋ルートの遮断)にあたり、

ポツダム宣言後は、そのままベトナム兵を米軍との戦いの為に鍛え、軍事指導をした。

 

*幕末に官軍に敗れた奥羽越列藩同盟の人々は、敦賀から日本海を渡って羅津に着き、遼寧省に入って現地女性との間に子供を儲け、その子孫が現代の遼寧瀋陽)軍区の兵

士になっている。羅津は応神天皇出身地。

 

*国内に対立があり、揉め事がひどくなったときは、処刑したことにして海外に逃がし「遠くから、日本国のために生きろ」とする。

 

終戦時のシベリア抑留者30万人の兵士の生死が不明だとの研究がある。この人たちはどこに行ったのか。彼らはロシア人の中に入って、日本のために生きると決意し、ソ連解体(ゴルバチョフ革命)の地均しをしたのでは?(新井氏)

シベリア抑留者の一部は、中国人民義勇軍として北朝鮮へ行かされ、朝鮮戦争を戦った。(落合氏)
 

私には、上記のお話が真実であったのかどうかはわかりませんが、生き証人の証言を見つけました。

満州で就職、8月15日の1か月前に赤紙が来たが、案山子の軍隊の為の召集だった。南行きの列車に乗っている途中、ソ連兵がいて、列車が北に進んで行くのを見て直感で飛び降りた。他にも満州に土地勘のある現地兵は、ここで飛び降りたという。中国語と英語ができて、命がけで米国の短波放送を聞いて、自分で情報を取っていたにしても、素早い行動。大卒ではなかったが、英語で論文を書いて米国大学に認められて博士号を取ったなど、並の人にはできない努力の積み重ねです。実際に、独力でこの難儀な時代に人生を切り開いた人の証言を初めて読みました。戦後中国にエンジニアとして止まり、高給をもらっていたものの、毛沢東の様子を見て先が暗いと見越して、戦後5年して日本に帰国した、というところも驚きです。そんなに簡単に日本人であることを隠して、中国で就職したり、はたまたやめて、日本に帰国することができたなんて。エンジニアってどこの国でも生きていけるのですね。

 

weddson.my.coocan.jp

 

このサイトの管理人上田博章氏は、ご尊父がロシア諜報が役目の上田中佐。東条英機石原莞爾の下でも数年働き、ワルシャワ大使館で諜報活動、あの陸軍中野学校副校長。ご本人も5歳でワルシャワ空爆を経験。職業はアナウンサー。江戸時代から戦時中の、珍しいお話を書かれています。役職があろうとなかろうと、修羅場の時代に生き延びて日本で畳の上で亡くなった父上も強運ですね。

weddson.my.coocan.jp

weddson.my.coocan.jp

weddson.my.coocan.jp

「謎のアジア納豆」

高野秀行著 新潮文庫 2020

 

f:id:MeinFavorit:20210307162317p:plain

f:id:MeinFavorit:20200712083240j:plain

f:id:MeinFavorit:20200712083308j:plain

アジアの山岳地帯に住む少数民族の人々が、日本人よりもバラエティに富んだ手作り納豆食生活を営んでいることが実体験された旅。

岩手県西和賀で、雪を1m掘って、そこに藁を敷いて大豆を茹でたものと暖かいお鍋を入れて作る雪納豆を作っていたご夫婦や、秋田県大曲で食べられている納豆汁が、かつて日本人の主流の食べ方だった話。秋田南部では正月にお雑煮を食べる習慣はなく、餅はおやつのように食べるとか。横手市では、冠婚葬祭や行事、正月に納豆汁が欠かせない。異民族の名残を残す人々に思えたとか。

大曲で目が鳶色のロシア人ぽい風貌の男性に世話になったことが書かれていますが、小林惠子説なら、吐蕃民族が東北に住んでいたので、吐蕃の末裔かもしれません。秋田には時々目の青い人がいる、という話はネットでも読みました。

私は、ミャンマーのナガ族が古代日本に来て、長野ナガノという土地名をつけた、と妄想してみました。ナーガといえば蛇のことですよね。神社のしめ縄は、二匹の交尾する蛇を表していると言いますし。アジアの少数民族は、藍染や顔つきなど日本人と似ているところがあります。タイの高級竹細工のバッグは有名ですが、日本にも何万円もする竹の虫籠がありますね。

そのほか、ブータン、中国湖南省の苗族自治州、鳳凰古城でも納豆を食べる人々がいることが取材されています。

納豆合宿も長野でされて、最終的には、縄文人は茹でた大豆をトチノキの葉で包み、納豆を作って食べていた、という結論になっています。身近な納豆が、実はアジアの僻地で日常的に食されていたのみならず、起源は縄文時代から、という思いもしなかった史実を知って、続編も楽しみです。

 

p283 日本では煮豆は一貫して馬の餌であったという。江戸時代以前、馬は主に戦闘用だった。馬、煮豆、戦をセットとして考えるのは合理的なのだ。

p286 最初に納豆を食べたのは義家でも部下でもなかったと思う。馬だ。古代日本における秋田県南部は、現代のミャンマーにおけるシャン州に似ている。地理的にはどちらも東北地方。ともに冷涼で海から遠い内陸の盆地。住んでいたのは中央政府がある平野の住人とは別の民族。シャン州はイギリス統治時代に辺境とされ、平野部の直轄植民地であるビルマ管区とは区別されていた。古代日本では、秋田県岩手県は文字通り辺境と呼ばれていた。中央政府同化政策をとり、地元民族を圧迫した。シャン州ではシャン族やパオ族などの少数民族秋田県南部では蝦夷。通訳を使ったという記録が残っているので、日本語とは系統を異にする言語を話す民族、つまり異民族が含まれていたと思われる。

p290 納豆民族はアジア大陸では等しく国内マイノリティにして辺境の民である。

p291 蝦夷が最初の納豆民だと考えると、つい2、30年ほど前まで、納豆がもっぱら東日本の食べ物だったということが説明できる。

p292 「納豆沿革史」に夜と、前九年の役で義家軍に捕らえられ、太宰府に流された安倍宗任は日田地方(大分県日田市)に東北納豆の製法を広めたとする伝説があるという。

p313 千利休は茶会で使った料理の献立を書き残している。「利休百会記」と呼ばれるこの記録には、納豆汁が全部で7回登場する。納豆汁が冬だけの料理であることを考えれば随分多い。

p330 ナガ山地では、日本軍と連合軍が現地のナガ族の人々を巻き込んで死闘を繰り広げていた。皮肉なことに連合軍側ではジャングル戦に長けたグルカ兵が奮闘していた。三者全員が納豆民族であり、インパール作戦の悲劇は納豆民族の悲劇でもあった。

p458 「ここまでわかった!縄文人の植物利用」熊本大学考古学研究者 小畑弘巳先生に寄れば縄文人は、大豆を食べていたことが明らかになった。

p459 圧痕レプリカ法による調査の結果、黄河流域、朝鮮半島、日本とそれぞれ独自に栽培化されたことがわかった。豆の形が異なるのである。日本も大豆の起源地の一つなのだ。しかも中国や朝鮮半島とほぼ同時期か、若干早いくらいらしい。

p475 気になるのはブータンのチーズ入り納豆と朝鮮半島のチョングッチャンだ。それから西アフリカで広く食されているという納豆「ダワダワ」。中世マリ王国の都トンブクトゥでアフリカン納豆を食べてみたい。

f:id:MeinFavorit:20200712073555j:plain

f:id:MeinFavorit:20200712073628j:plain

次々にアジアの奥地で手作りされている納豆を取材に行かれるのですが、その様子がとても楽しそう。

ネパールのビラトナガルにキネマと呼ばれる納豆を探しに。中央の著者と、右端の現地の男性が、なぜか双子のようにそっくり。

f:id:MeinFavorit:20200712073657j:plain

f:id:MeinFavorit:20200712074813j:plain

f:id:MeinFavorit:20200712081642j:plain

f:id:MeinFavorit:20200712081709j:plain

 直径10cm長さ40cmの竹に入った納豆。竹筒は、ミャンマー、中国、タイ、インド国境地帯の山の民、カチン族含む、が容器として使用しているもの。水を汲んで運ぶのにも使われる。

f:id:MeinFavorit:20210307163505p:plain